耳の奥底に広がるかけがえのない記憶…小川洋子さん新刊短編集『耳に棲むもの』の世界
作家、小川洋子さんの新刊小説『耳に棲(す)むもの』(講談社)は、耳の奥底に広がる異世界などを描いた5編の短編集。耳の中の音楽隊にペットのドウケツエビ、大切に持ち歩く古いクッキー缶、死んでも朽ちない小鳥のくちばしと爪…。奇想な心の深層に分け入るような不思議な物語だ。 ■VRアニメから 今作が生まれた背景には、小川さんが原作を担当し、アニメーション作家の山村浩二さんが監督を務めたVRアニメ作品「耳に棲むもの」がある。耳の奥の不思議な世界が印象的に描かれた作品で、カナダのオタワ国際アニメーション映画祭2023のVR部門で最優秀賞を受賞するなど注目を集めた。今回の短編集は、そこから派生した「もう一つの物語」だ。 小川さんは、「耳という肉体的、具体的な入り口から入ることで、抽象的で曖昧な心の世界にたどり着けるのではないかと思った」と語る。主人公は、補聴器を販売するサラリーマン。幼少期、最初にできた友達が耳の中に棲む音楽隊だった。バイオリン、チェロ、ピアノ、ホルンのカルテットが耳の中で演奏を繰り広げ、またそこには、ペットとして飼っていたドウケツエビもいた。いわば、幼少期の子供が持つとされるイマジナリーフレンドだったのだろう。 長じて補聴器販売の仕事に就いた彼。「閉じ込められているものに愛着を感じる」といい、補聴器は、耳に蓋をして奥にある大切なものを守ることができる道具だという。 ■記憶のかけら 短編「耳たぶに触れる」では、仕事で各地を巡る彼が、大切に持ち歩いている古いクッキー缶に焦点を当てた。缶の中身はダンゴムシの死骸やビー玉、ビールの王冠、コイルの切れ端など「忘れられたものたち」だ。小川さんは、「世の中の出来事は大抵忘れ去られていくし、一個人の記憶ははかないものだけれど、その記憶のかけらというか、象徴みたいなものが、化石のように実は世界を形作っている」と話す。 短編「今日は小鳥の日」は、そんな彼が会員として所属する小鳥ブローチの会が舞台。会員たちは公園などで小鳥の死骸を探し出し、腐敗しても朽ちずに残っているくちばしと爪を使って小鳥ブローチを作る。それは、誰にもみとられず、ひっそりと姿を消し、微生物に分解される小鳥たちの死を、形あるものとしてこの世に刻み付ける神聖な行為だという。 「世界のどこかで、小鳥ブローチの会なるものが開かれているのかもしれない。そんな想像力を持っていたほうが、自分のちっぽけな人生も多少は豊かになれる気がする」と小川さん。「誰も見向きもしない単なる石ころみたいなものの中に、実はかけがえのないものが凝縮されている。それを読み解いていくのが作家の仕事だなと思う」