「議論を好むフランス人」と「自己主張できない日本人」 地政学的条件が生んだ違い
集団の調和を重んじる日本社会では、議論は対立を招き、秩序を乱すものと捉えられがちです。対して、フランスでは議論はむしろコミュニケーションの主要な基盤だと、脳科学者の中野信子さんは語ります。その違いはなぜ生まれたのでしょうか? 書籍『新版 人は、なぜ他人を許せないのか?』より解説します。 人間関係のトラブルの原因がわかる診断 ※本稿は、中野信子著『新版 人は、なぜ他人を許せないのか?』(アスコム)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
議論ができない日本人
集団の意思に従いがちな日本では基本的に議論が行われるケースが少なく、多くの人が議論下手、あるいは議論を避けるようになっていきます。 私はフランスで生活をしていましたが、かの国は日本とは正反対、議論はむしろコミュニケーションの主要な基盤とすら思えてきます。日本人から見れば人と人が顔を合わせれば、毎日議論ばかりしている国に見えるかもしれません。 私もそのなかにいたわけですが、日本に戻ってきて考えるのは、日本で行われている議論のほとんどが、フランスで私が見てきた議論とは異質のものだということです。 あるテーマAに対して、Xという主張、Yという主張を持っている人がいるとします。フランスであれば、一方が「Aについて話をしたい。私はXだと考える。その理由はかくかくしかじかだが、あなたはどうか?」と語り始めたら、もう一方は、「私はあなたと考え方が違う。私はYだと考える。その意味するところはかくかくしかじかで......」と応じます。 そこからお互いが、より議論を掘り下げていき、この部分はどう考えるか? とか、この部分は賛成だがこの部分は理由になっていないのではないか? あるいはこの部分まではお互い共有できる、などといった具合に発展していきます。人と人が会うたび、大きなテーマが世間の話題になるたびに毎日こんな調子で、はたから見ていると、みんなとても楽しそうに意見を交わしていました。 私は結局日本人だからなのか、正直「また議論か、もうおなかいっぱいだ」と感じることも多かったのですが、ひとたび「君はどう思う?」とこちらに振られたら、反応しないわけにはいかないのです。 その後日本に戻ってきて、「君はどう思う?」からはようやく解放されたのですが、日本人同士の議論を見ていると、フランスとは決定的な違いがあることに気づきました。 同じように、あるテーマAに対して、Xという主張、Yという主張を持っている人がいるとすると、だいたいこんな具合に展開していくのです。 「Aについて、あなたはYだと主張しているが、その考え方はいかがなものか?」 「いやいや、Xなどと言い張っているあなたこそ失礼千万だ!」 「なんだその態度は! 生意気な。人の顔をつぶすのか?」 「大した勉強もしていないくせに、何を熱くなっているの。どちらもみっともないよ」 これもこれで、はたから見ている限りでは面白そうですが、日本の議論はなんだか様式美的で、深掘りせずにステートメント(意見)を争わせ、最終的には本質の探究ではなく、喧嘩コントのような戦いになってしまうのです。もっとも、これをプロレス遊びのように捉えるのであればエンターテインメントとして成立するのかもしれませんが、正直議論と呼べるのか、私には疑問です。 そんなことを考えていたら、あるフランス人にフランス語では、「議論する(discuter)」という動詞が「人」を目的語に取る(~と議論する)のに対して、「論破する(réfuter)」という動詞は、人を目的語に取らないんだよ、と言われました。 これはつまり、議論は人とするものだけれど、言い負かすのはあくまで話している内容、論旨であって、上司を論破する、夫を論破する、相手を論破する、という使い方はしないということです。 とはいえ、別のフランス人には、いや、そういう使い方もあるし、時には議論でめちゃくちゃにやられて仲が悪くなることもあるよ、と言われたりもしたのですが......。まあ、多様性があるということになるのでしょうか(私が噓をつかれているのでなければ)。 一方、日本では主張と人格とが分離されず、容易に人格攻撃へとつながります。これは、ある意味日本を象徴するような特徴かもしれません。