なぜこの国はずっと変われないのか…極端な人ばかりが注目される社会の「大きすぎる困難」
現代社会における最大の心理的な問題は、未熟なナルシシズムが修正される機会が減少してしまっていることだ。自分が望むのとは違う形で、他の人から自分のことを見られたり語られたりすることに、耐えることができない。 【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」 たとえば、自分のことを頭が良いと任じている自己愛パーソナリティーの人は、他者から「実は馬鹿なのではないか」とみなされたと感じると、そのことに強い恥辱と怒りを感じ、相手が抱く自分についての不快なイメージを拭い去り、望ましいイメージをそれに上書きしたいという欲望に駆り立てられる。その激烈な感情は、他の欲求や情緒を圧倒してしまうほどである。 「ナルシシズムの傷つき」を癒すことが最優先され、他の現実的な要因、たとえば、危険な、あるいはコストがかかり過ぎる選択をしていないか、周囲の人を傷つけ、迷惑をかけることにならないかといったことについての配慮は失われる。 私は「日本的ナルシシズム」という言葉を頻繁に使うが、日本人だけがナルシシスティックだと考えているのではない。そもそも、ナルシシズムの問題が最初に注目されたのはアメリカだったし、自分が見聞する範囲ではやはり今でもアメリカのナルシシズムの問題は簡単なものではない。ナルシシズムの問題は、日米だけではなく、経済的な発展が進み、欲求の即時の充足が行われるようになればなるほど、世界中で問題になることが増えるだろう。 しかし、ナルシシズムの問題が共通だとしても、その表現型は国によって異なる。そして、日本ではナルシシズムの問題がナルシシズムの問題として気づかれにくい。日本社会では謙虚さが美徳であるとされる。それならば、もし、「謙虚である」と周囲から見られたいと望むナルシストがいた場合に、どんなことが起きるのだろうか。「恥をかくかもしれない」場面を回避し、本来ならば自分が責任をもって行わねばならない発言や行動を、誰か他の人に押し付けるのだ。そのことを認識して相手に感謝しながらそうするのならばよい。しかし、重篤なナルシストの場合に、そのことの自覚が乏しい。残念な場合には、責任回避をして誰かに担ってもらいながら、その現実を見ないようして、「分をわきまえて、でしゃばらない私」という自分についてのナルシシスティックなイメージを守っている。 最近、これこそが日本的ナルシシズムの典型だと思った話を聞いた。 話題になっている兵庫県の知事選挙の一部である。再選を果たした斎藤知事に投票した若い人の中に、支持した理由を「他の候補者の悪口を言わなかったから」と説明した人がいたという。日本人は時代とともに変わり、良い方向に変わっている点がたくさんある。 しかし残念ながら日本的ナルシシズムの部分はあまり変わっておらず、ひょっとしたら世代を経るごとに悪化しているのではないかと危惧している。つまり、他人への攻撃性のような本人たちが「悪」と考える要素を、自分の心の中に保持して考えや思いを巡らす情緒的な耐久力が極端に弱く、反射的に外部に排せつしてしまうように見える人々が、散見されるのだ。 二つの意味でこの若者の感じ方・考え方はナイーブだ。一つは、「攻撃性を見せない」候補者の表の顔を信じ込んでいて、陣営内の他の人が、その攻撃性を代行している可能性についてまったく考えていない点である。もう一つの方がより深刻である。「悪口」と本人が簡単にまとめている他者への攻撃性や批判的な言説についての、肯定的な意味や機能についての認識がまったく不足している。そして、そういったことを欠いたまま政治家という仕事が成立すると信じている。 そもそも、政治家でなくても、あらゆる社会人にとって、自分の中の怒りを正当に認知し、それを妥当な方法で表現することは、適切な自己主張を行い、社会生活を円滑に営むために必要なものである。しかし、そのような正当な範囲であっても、怒り・恨み・攻撃性・妬みといった人間の感情の負の部分に触れることに耐えられないと、先に言及した若者は感じている。 この場合に期待している人間関係は、相互に相手の不快な感覚を刺激しないように気を遣い合っているような質のものだ。もし負担に感じるコミュニケーションを受け取った場合に沸き起こるのは、そのような嫌なものを押し付けてきた相手に対する反発である。論として受け取って議論に乗ることはなく、それが排除されることを望む。その場では笑顔で受け取っておきながら、ウラで管理者にその人を排除することを要望するという形で。排除する手を下すのは、自分ではない。 この場合の日本的ナルシシズムは、「自己主張して厚かましい人、空気の読めない人、配慮せずに人を傷つける言動を行う人」とみなされることを避けるという形で発揮される。このような人々が多数の場合に、コミュニケーションは恐ろしく非効率になる。論点が明確な自己主張は当然行われない。なんとなく雰囲気が自分たちの望むようになることを待っている。期待とは別の方向に物事が進みそうになった場合には、それが進行しないようにひたすら抵抗する。 つまり、自己主張はコミュニケーションを通じて社会を成り立たせるための必須の要素とみなされておらず、誰か別の人にアウトソーシングしてそこに乗るべき「ケガレ」のように体験されている。そういう人が多数の国では、なかなか政治が機能しない。 このような形の日本的ナルシシズムを抱えている人は、自分の感情や思いを表現して発散する機会が当然少なくなる。モヤモヤが内側に貯まりやすく、それによって内側に強い緊張を抱えるようになる。そこで、内に貯まった怒りや攻撃性を発散できる機会が与えられた場合に、「あのおとなしい人が?」と思わせるような強烈な行動を示してしまうことがある。長年抑圧されてきた承認欲求が満たされるチャンスと感じた時に、行き過ぎる行動が出現しやすい。 そうではなく、もっと他者本位の緊張緩和の方法が選ばれることがある。「陰謀論」に誘惑されるのだ。誰かが、「あいつは悪い相手だから攻撃してよい」というストーリーを作って納得させてくれる。そして、自分だけではなく多くの人がそれに巻き込まれている。その人をみんなで攻撃するのは、正義となる。そのように自分と自分の周囲を誘導し、自力では解消できなかった内面の緊張を解放する機会を作ってくれた人を、カリスマのようにあがめるかもしれない。 しかし、このようなことばかりを続けていれば、いつまでも他人や周囲の空気に影響されるばかりの人生になってしまうだろう。そういう人が多い集団では、何をなそうとしてもズルズルベッタリでグダグダの展開になってしまう。パワハラ的なリーダーが強制しないと何も動かない、問題解決や課題達成のための期日に間に合わないという事態もありうる。