なぜこの国はずっと変われないのか…極端な人ばかりが注目される社会の「大きすぎる困難」
変えるべき「組織的家族集団」
では、どうすればよいか。つい先日発表した「いよいよ多くの人が気づき始めた、兵庫県知事選挙で露呈した「リベラルの崩壊」 模倣の欲望が加速している」という記事では、新しい秩序の構築のために、「人権意識の向上」「客観的なルール設定」「自分の内側にある怒りや羨望を自覚して、それをパーソナリティー全体の中に統合していくこと」の3つが必要だと主張した。 先ほどの若者が、特に3番目の課題、「怒りや羨望を自分の内側にあるもの」と自覚することに非常に大きな困難があることは、想像に難くない。その場合に不快な情緒は自分の心の中に抱えられず、怒ったり攻撃性を発揮しているのは自分ではなく、周囲の誰かだというように投影される。被害妄想的な、陰謀論的な認知まであと少しである。 くり返しになるが、この問題は現代の若者だけの問題ではない。思い出すのは黒澤明監督の名画「七人の侍」のラストシーンだ。侍たちは、農村を守るために命がけで戦い、襲ってくる野武士たちを撃退することに成功した。そして何も持たずに追われるように去っていく。「勝ったのは農民たちだ」という言葉を残して。農民たちの視点からすれば、闘争のような攻撃性の発露を必要とするケガレにつながる行為は、アウトソーシングできるのが最善なのだ。しかし、そのことへの感謝や尊敬の念は薄い。 日本人にとっての政治は、そのようなものになっている。先日行われた衆議院選挙の投票率が、53.85%と戦後3番目に低かったのは印象的だ。選挙中、与党を批判し処罰を与えたい国民感情が強かったことを感じた。 その中で立憲民主党のような野党が議席数を増やしたが、自民党を批判するためにもっとも具体的な材料を提供した共産党が議席数を減らしたのは、さすがにかわいそうだった。国民感情として、そもそも政治がケガレで、その中で長く与党をしていた自民党は強くケガレていて、それに対して強い攻撃性を発揮した共産党もやはりケガレていて、そのなかでケガレている程度がその瞬間に少なく感じられた政党を選んだ選挙結果だと解釈できる。しかし民主主義で選挙民は政治における重要なステークホルダーである。この選挙における選挙民の振る舞いは、その責任にきちんと継続的にコミットするという意識からは程遠い。 山本七平の『なぜ日本は変われないのか 日本型民主主義の構造』という本では、日本では組織が家族的で、システマティックにならないことが指摘されている。次は、そこからの引用である。 「組織的家族集団は、何らかの客観的公理などに基づく権威を主張してはならない。公的な一つの基準に基づいて「公平」に裁定を下すなら、その者は”権力的”という非難のもとに、調和を乱す者として排除される。従って、もっとも非権威的な者が指導者になる」 つまり、弱い、担ぐのが楽なリーダーが選ばれる。 これについて山本は、「われわれの社会に、何らかの変革がなくても、各人の現在をそのままに保持してゆけるなら、いわば現状固定で永遠に経過してゆけるなら、いっさいの変革は考えなくてよい」と続けるのだが、今の日本と日本人の状況はそうではない。 日本人は集団主義で個人主義ではないと言われるが、それは正確ではない。強いて言うならば「直接の所属感のある、小~中規模の集団絶対主義」である。つねに、直接の帰属感のある集団の空気による決定が、個人に優越する。 しかしもし集団の空気を味方にすることができれば、その個人は相当のわがままを通すことが可能になる。正当な意味での個人が認められていないので、独立した個人と個人が、公共心や信頼できるルールに基づいて構成する、規模の大きいシステマティックな組織は信用されず、日本では成り立ちにくい。約束事の基盤になる個人が認められて信用されることがないからだ。契約を重視するようなシステマティックな大組織がなかなか成立しないので、日本国内では大きな規模のものであっても、「組織的家族集団」の延長であることが多い。 例えば、大日本帝国がそうだった。そして大日本帝国を敗戦に導いた要素は、それより下位の「陸軍」や「海軍」のよう個々のメンバーの所属感の強い集団の特殊利害についての影響力が、大日本帝国全体の円滑な運営に協力するという目標を上回ったことだった。 ここを変えていくしかないのではないか。