いまから120年前、クリスマスはなぜ「世間が浮き立つ楽しげなイベント」になったのか
本当のところは誰もわからない
クリスマスは日本発祥のイベントではない。 ざっくり言えば西洋のイベントだ。 具体的には、ナザレのイエスの降誕日である。 【写真】サウナは秘密デートにぴったり? セクシーすぎる…サウナデート体験レポート 生誕ではなく降誕。 神が降りてきたとか、まあ、そのへんだ。 ナザレのイエスが人として生まれた日がそう規定された。 西暦でいえば1年の出来事だ。 そりゃ、西暦というのはキリスト降誕年を元年としているのでそうでないと困るのだが、ほんとうはちょっと違うらしい。まあそれはいい。 イエスが生まれたのが何月何日なのか、本当のところは誰もわからない。 日本で言えば弥生時代、西アジア地中海寄りのナザレに現れた子が何月何日に生まれたかなんて、まず、わからない。記録する習慣がない。
どんどん薄まってきた宗教色
イエスはその後いろいろと活動して、紀元30年ごろに死刑になる。 過激な宗教活動が問題視されたということだろう。 彼には従う集団がいたから、死刑になった日を覚えようとしている。細かく言うと、死刑になった次の次の日に、彼が復活した姿を見た、と言いだす人がいたのでそちらの日で記憶されている。だからまあ、死んだ日もわかる。 それは「春分の日を超えた最初の満月のあとの始めての日曜の二日前」である。つまり復活祭の二日前だ。その日に人としては死刑になって死んでいることになる。 これは4世紀になってから、つまりキリストが生まれて死んだころから300年ほど経ったのちに、決められた(もしくは検討された)日である。 生まれた日が(降誕だけど)ドンピシャ12月25日とされ、それから30数年のちに死んだ日が「3月22日から4月25日あたりの金曜日」とフラフラなのが、かなり不思議なところである。 死んだ日がきっちりと記憶されず、生まれた日はきちんと指定されているということは、つまり生誕の日ほうがとても怪しいということに見える。 クリスマスは宗教的なイベントではあり、宗教に熱心な時代には宗教的に大事にされていた。 しかし近代に入り、宗教の言うことより、科学の言うことを聞く人が増えてくると、クリスマスは宗教色がどんどん薄まっていく。復活は、そこを信じないとキリスト教信者とは言えないわけだが、降誕は、そこまで宗教的強制が薄い。 そもそも人類は、仲間を(家族を)生まれた日ではなく死んだ日で記憶するのが集団としての習わしであり、誕生日と命日では圧倒的に命日が大事にされてきた。 自分の誕生日をほとんどの人が知っている社会というのは、千年前の人たちから見れば、かなり異様な状況に見えるはずだ。