【全日本フィギュア】三宅咲綺がようやく見つけた自分らしいスケート 坂本花織や三原舞依との練習を励みに
父から「やめてもいいんだよ」と何度も言われたが……
コーチの指導により技術は確実に向上していったが、いつしか試合が怖いと思うようになり、練習でミスのない演技ができていても本番では普段しないような失敗をして結果がついてこなくなっていた。その様子を見ていた父は何度も「スケートをやめてもいいんだよ」と伝えていたが、三宅は決して首を縦に振ることはなく、結果が出ない状態でも「いつか試合でもミスのない演技ができるはずだ」と信じ、日々の練習を取り組んでいた。 中学1年生の時に秦安曇(あずみ)コーチのもとで練習するようになった。出場した全国中学校大会では実力を発揮できず、不甲斐(ふがい)ない結果でかなり落ち込んだ。父からは「もうスケートをやめよう」と諭されたが、その様子を見ていた秦コーチが父に「何も言わずに3年、私に任せてください」と伝えた。三宅もその言葉を信じてついていくことを決めた。 当時のチームには中塩美悠さんを含め、トップレベルの女子選手が多く練習しており、「いつか追いつきたい」と練習に精が出るようになった。次第に試合でのミスは少なくなり、中学3年生の時に初めて全日本ジュニア選手権に出場した。 この時初めて自分の演技に観客が自然と手拍子をしてくれる経験を味わい、「これからもそんな試合に出続けたい」と思った。
連続3回転ジャンプを習得、高校1年生で全日本初出場
高校は、岡山県のスケーターが数多く在籍していた岡山理科大学附属へ進学した。部活の時間として練習時間を確保でき、三宅星南(関空スケート)や門脇慧丞(法政大学)らと一緒に練習し、充実した生活が送れていた。 その頃、今や三宅の代名詞となったダイナミックな3回転トーループ-3回転トーループの連続ジャンプを習得した。これまでスケーティング技術には定評があり、このジャンプを習得したことで、「シニアで戦えるのでは」とコーチから助言をもらい、高校1年生の時にシニアに移行することに決めた。 そのシーズンに、ハイレベルな西日本を勝ち抜き、全日本選手権への切符を手にした。初めての全日本の会場は、ジュニアの会場とは雰囲気が全く異なっていた。広い会場で雰囲気にのまれてしまい、本来の力を発揮できなかった。だが、以前のように落ち込むことはなく、もっとメンタル面を強化し、この舞台に帰ってくることを誓った。 そして翌年の全日本では見事に自分の気持ちに打ち勝って12位となり、翌シーズンの強化選手に選ばれた。いつか国際大会に出場してみたいと思っていただけに、そのチャンスがあるかもしれないと思っていたが、新型コロナウイルスの感染拡大で海外への派遣はなかった。また腰椎(ようつい)の分離症を発症し、思うような練習ができず、高校最後のシーズンは全日本出場を逃した。