朝敵とされてきた会津藩や庄内藩。近年では擁護の論調も強くなっているが、はたして…歴史研究家・河合敦が解説!
◆主戦派と恭順派 このとき主戦派の若き家老・鳥居三十郎は、驚くべき決断をする。城下を戦禍から守り、武士の意地を通すため、少数になった主戦派だけをともない、隣りの庄内藩へ向かったのである。 庄内藩は鳥居たちを受け入れ、藩境の鼠ヶ関(ねずがせき)を守らせた。 一方、恭順した村上藩士は新政府方となり、脱走村上藩士と同士討ちを演じる悲劇が起こってしまう。 ただ、脱走村上軍は、庄内藩士と手をたずさえて新政府の大軍を食いとめ、最後まで鼠ヶ関砦を守り切ったのである。が、そんな庄内藩も降伏することになり、鳥居たちは村上に帰った。 無抵抗で城下を明け渡した村上藩は本領を安堵されたが、列藩同盟に加わった責任は問われた。 このとき首謀として自ら名乗りを上げた鳥居は東京で刎頸(ふんけい)の判決を受け、村上で処刑されることになった。これに主戦派が反発、結局、藩は切腹へ変更する。 しかし処刑前日、恭順派のリーダー江坂與兵衞が主戦派によって殺害されたのである。このため、明治になってからも村上では、主戦派と恭順派がいがみ合い、これに町人の対立が加わって混迷を極めることになった。 このように弱い藩から見れば、会津藩や庄内藩、仙台藩こそが「悪」という見方も成り立つのである。 いずれにせよ、明治維新150年を機に、多様な観点から歴史が語られるのは、大いに賛成である。 ※本稿は、『逆転した日本史~聖徳太子、坂本竜馬、鎖国が教科書から消える~』(扶桑社)の一部を再編集したものです。
河合敦