朝敵とされてきた会津藩や庄内藩。近年では擁護の論調も強くなっているが、はたして…歴史研究家・河合敦が解説!
◆会津藩、庄内藩を擁護する論調 とはいえ、おそらく長州藩や薩摩藩が幕府を倒さなくとも、日本は近代国家になっていたはずだ。 すでに幕府の有能な官僚や将軍徳川慶喜は、フランスなどの制度を参考に近代国家への移行を考えていたからだ。 けれど、「勝者が歴史をつくる」という慣用句どおり、戊辰戦争に勝った明治政府が正義とされ、とくにその中枢をになった薩長藩閥が戦前は力を握り続けていたから、幕府や佐幕藩、明治政府に逆らった東北諸藩は悪だとされた。 戦後もそうした薩長史観は大きく変わることがなかったが、近年、朝敵とされた会津藩や庄内藩を擁護する論調が強くなってきた。 でも、果たしてそうなのだろうか――。
◆藩が仕組んだ狂言 私は新政府に逆らった藩が必ずしもまったくの被害者とは思えないのである。 東北・北越諸藩は奥羽越列藩同盟を組織し、新政府軍と激戦を繰り広げた。同盟側は全部で31藩。けれどその多くは、会津や庄内、米沢や仙台といった大藩に強要され、いやいや同盟に参加したのである。 越後の新発田(しばた)藩もその一つ。もともと勤王派だったので、なかなか出兵して新政府軍と戦おうとせず、同盟諸藩からせっつかれた。そこで兵を出そうとしたところ、領民が暴動を起こして行く手を阻んだのである。 でもじつはこれ、藩が仕組んだ狂言だった。 疑いをもった米沢藩主は新発田領近くに着陣し、新発田藩主に来訪を求めた。場合によっては人質にしようという魂胆だ。 追い込まれた新発田藩はやむなく兵を出すが、新政府軍が優勢になると、突如、領内に新政府軍を引き入れて寝返った。 村上藩の場合はもっと複雑だ。藩主の内藤信民は新政府への恭順を説くが、藩士の多くが主戦派で、なおかつ、庄内藩や米沢藩が味方するように圧力をかけてきた。 そこで仕方なく村上藩は列藩同盟に加わるが、悩んだすえ19歳の藩主はなんと自殺してしまい、藩内は大混乱に陥ってしまう。そうした中、いよいよ新政府軍が大挙して村上城下に入り込んでくる。