【山手線トリビア】 当初は常磐線のターミナルだった〇〇駅、勾配がきつくスイッチバック方式で石炭を積んだ貨物が到着したというのは驚き!
大正~昭和初期は文士たちのサロンがあった
現在の田端駅は、1930(昭和5)年に開業の地から約200メートル南東に移設されたもので、北口と南口の2つの改札口がある。北口は表玄関だが、南口は武蔵野台地の上に立ち、自動改札が設置してあるだけで駅員もいない。まるでローカル線と思えるほど簡素な駅舎で、駅前広場もない隠れた名所である。
南口の標高は約20メートル。対して北口は約6メートルだ。南口から見下ろすと、田端駅が台地の下にあることが一目瞭然。このため、周辺には江戸坂・上の坂(かみのさか)・不動坂といった「坂」が多く、これらを巡るのも田端散策の楽しみのひとつだ。 不動坂は南口近くにある石の階段で、案内板によると「かつて付近に石造不動明王立像が安置され、不動の滝があったことによる」とある。不動明王像は現在、約800メートル西に移され、田端不動尊となっている。 上の坂には文豪・芥川龍之介の旧邸跡がある。芥川は1914(大正3)年、田端に移り住んだ。すると室生犀星・菊池寛・萩原朔太郎・堀辰雄・平塚雷鳥らも続いて転居してきて、 いつしか田端は「文士村」と呼ばれるようになった。それに伴いレストランやテニスコートができ、芸術サロンとしてにぎわった。現代まで読み継がれる芥川の「羅生門」「鼻」「河童」などの作品は、田端時代に書いたものだ。 ところが1927(昭和2)年、芥川が自殺すると、翌年には犀星が田端を離れ、文士村は終焉に向かっていった。
北口駅前にある「田端文士村記念館」は、そうした文士たちの歴史を振り返ることができるミュージアムで、旧芥川邸の復元模型や関係資料が展示されている。10月5日からは芥川の転入110周年を記念し、『作家・芥川龍之介のはじまり~書斎「我鬼窟」誕生までの物語~』の企画展を催す。 時代はさかのぼって、鎌倉時代に関連した史跡も紹介しよう。北口から徒歩10分ほどのところにある上田端八幡神社である。
江戸時代の田端は台地を上田端村、崖下を下田端村と呼んでいたが、八幡神社は上田端の鎮守だった。 1189(文治5)年、源頼朝がこの地の豪族・豊島氏と一緒に奥州藤原氏を平定した帰路に、立ち寄り勧請したと伝わる。祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと)=第15代・応神天皇。軍神である。 境内の別宮・白髭神社の付近には、頼朝の御家人・畠山重忠ゆかりの「争いの杉」といわれる大木もあったという。高さ約8メートル、幹の太さ約3メートルの巨木で、「これは松の木か、それとも杉か」を、重忠と家臣が言い争ったというのだ。現在の白髭神社には、小さな祠(ほこら)が立っているだけだ。 似た伝承が室町時代後期の武将・太田道灌にもある。田端の近隣に道灌山と呼ばれる高台が今もあるが、そこにあった巨木を道灌と侍者とが「松か杉か」で言い争ったというもの。伝説が次第に変容していく、そうした例のひとつではないだろうか。