松田直樹の命日に松本山雅が劇的逆転勝利、継承される魂と反町監督の後悔
運命に導かれたかのように、松田さんが魂を残した松本山雅を率いて7年目。妥協を許さない厳しい指導を介して着実に実力をアップさせ、2015シーズンにはJ1で戦う夢も成就させた反町監督は同時進行で、クラブの環境整備にも注力してきた。 「マツが来たときにオレはいなかったから何とも言えないけど、クラブの管理不足もあっただろうし、だからこそ本当に残念だった。このチームに来てからはオレも選手の健康管理を第一に考えながら、人一倍やってきたつもりです。サッカーができなくなったら、やっぱりおしまいだから」 反町監督に率いられて3年目の2014シーズン。名古屋グランパスを退団した前年のオフに届いた、数多くのJ1クラブからのオファーを蹴る形で加入したのがDF田中隼磨だった。 自身にとって初めてとなる、J2でのプレーを選んだ理由は2つ。生まれ育った長野県松本市に生まれたJクラブであることと、マリノス時代に眩しい背中を追いかけ続けた松田さんの遺志を継ぐためだった。松田さんの死後は空き番となっていた「3」を背負った田中は、こんな言葉を残している。 「松本山雅の『3』は特別な背番号だし、マツさんの魂や気持ちを抱いて戦わなければ背負う資格はないとも思ってきた。『3』をつけることでいろいろな人の想いや願いを背負いました」 覚悟と決意を抱き、松本山雅の一員になってから4年目。先月31日には36歳と大ベテランの域に達した。サッカーを愛し続けた松田さんより年上になって久しい田中もまた、故人の命日に手にした白星に「すべての試合がオレにとっては特別です」と表情を引き締めた。 「マツさんが成し遂げられなかったことを、36歳になってもマツさんの背番号をつけてできていることを、当たり前に感じちゃいけない。本当に幸せに感じないといけないし、同時にオレにはまだまだやらなきゃいけないことがたくさんあるので」 課された使命のなかで最も大きいと自覚しているのが、松田さんが駆け抜けた熱き軌跡を次代に伝えていくことだ。2011シーズンのJFLをともに戦ったメンバーで、いまも松本山雅でプレーしているのは32歳のDF飯田真輝だけとなった。