「病院」の地図記号の始まりをたどる。明治時代から戦後にかけて、記号はどのように変化したのか
◆困った改訂 さて避病院だが、病院の記号とは別に定められたのは明治33年図式であった。この時点ではワッペンのみで十字がないものが「避病院及隔離病舎」(図2)、ワッペンに十字が通常の「病院」とされた。 ところが白いワッペンの意味が通じにくかったからか、明治42年図式でワッペンに十字の従来の「病院」を「避病院及隔離病舎」に転用し(図3)、ワッペンの上辺だけが2重線になった新しい記号を「病院」と定めたのである(図4)。 これはなかなか困った改訂で、おそらく当時から地形図の誤読は多かったに違いない。 ちなみに2重線の新しい病院記号は、大正3年(1914)発行の『地形図之読方』によれば、「陸軍野戦病院符号」に由来すると明記されている。 日露戦争が終わって4年後の図式であるから、203高地あたりに張られたテントに2重線と十字のマークがはためいていたのだろうか。 この記号はその後も大正6年図式および昭和17年図式(ごく少数の図に適用)まで続いたので、戦前の地形図を見る際には注意が必要だ。 記号凡例を見れば両者の区別はわかるが、図の左下の凡例欄で明治42年図式か大正6年図式であれば「現在の病院記号=避病院」と解釈すればよい(大正6年式はその旨記載しておらず、代わりに「符号ノ詳細ハ地形図々式〔別紙として頒布されていた=引用者注〕ニアリ」との一文がある)。
◆恐るべき人権侵害 病院記号に限らず、「図式」の適用については誤解が多いのでここで解説しておこう。ある地域の地形図を最初に刊行したのがたとえば大正7年であれば、当然ながら「大正6年図式」が適用されるのだが、時代の経過とともに何度かの修正版が刊行される。 戦後になっての応急修正なども同様で、昭和35年に修正版を刊行する場合、本来なら図式を変更して全面的に描き換えるのが理想だが、予算や時間、人員の制約もあって一気には進められない。 そのため「大正6年図式」のまま部分的な修正でしのぎ、ようやく昭和40年代に入って新しい「昭和40年図式」を適用するといった処置が珍しくなかった。 要するに、異なる時代の図式が同時期に混在することをお忘れなく、ということである。 避病院の記号は、ハンセン病患者の収容施設にも適用された。現在は国立療養所に含まれているが、かつては「癩(らい)療養所」と呼ばれ、国による徹底した隔離政策と一般国民の偏見や差別のため、入所者は戦後も長期間の滞在を余儀なくされた。 図3は香川県高松港から約8キロ沖に浮かぶ大島で、当時の呼び名である「癩療養所」と明記されている。 この図は明治42年図式だが、その字の傍らに記されている現在の病院記号と同じ形のものが、当時の避病院の記号である。ただし療養所によっては一般病院の記号で表されているケースもあり、これは個別の病院の相違に伴う判断なのだろう。 昨今では新型コロナウイルスの感染拡大防止のために外出自粛の辛さを多くの人が経験したが、この避病院記号の一郭に住んだかつてのハンセン病患者たちは、自粛どころか一生涯ここから出られないとの悲愴な覚悟をもって入所し、しかも親族に累が及ばないよう亡くなるまで偽名で通した人たちも多い。 それを考えると、あらためて恐るべき人権侵害であったことを思い知る。