甘いマスクと勇猛果敢なファイトで女性ファンを魅了…テリー・ファンクが「日本人に最も愛されたレスラー」になった“流血の一戦”
10代でテリーを見た記憶
テリーの経歴について簡単に述べておこう。 アメリカのインディアナ州で生まれ、テキサス州で育った。プロレスラーだった父から英才教育を受け、1965年、21歳でデビュー。初来日した翌年の71年、兄とタッグを組み、馬場&猪木の「BI砲」を破ってインターナショナル・タッグ王座を獲得。4年後の75年には、世界最高峰のNWA世界ヘビー級王座にも輝いた。 勇猛果敢なファイトは「テキサス・ブロンコ(荒馬)」と呼ばれ、人気漫画「キン肉マン」のキャラクター、テリーマンのモデルにもなった。 惜しまれつつ83年に現役を引退したが、翌年に復帰。滞在先のホテルに集まったファン一人一人にサインし、記念写真にも笑顔で応じるなど、心温かいサービスは多くのプロレスファンやレスラー仲間の 共感を呼んだ。 日米さまざまな団体で活躍したが、2021年、認知症の治療のため介護施設に入っていると報じられた。一方で、体調は少しずつ良くなっているとも言われ、そのファイトをもう一度見られるのではないかと期待したが、病魔に倒れる。米プロレス団体のWWEが8月23日に死去を発表し、日本にも訃報が伝えられた。 そんなテリーを私が初めてこの目で見たのは10代。青春期の記憶というのは恐ろしいほど鮮明に蘇ってくる。記憶が鮮やかなだけに、夢中になって話してしまう。やはり蔵前国技館での「あの流血の一戦」が大きかったに違いない。私にとってプロレスとは、今もなお、あの蔵前国技館の一戦なのである。 テリーの入場テーマ曲、「スピニング・トーホールド」を思い起こす。ミル・マスカラス(82)の入場テーマ曲、「スカイ・ハイ」が会場に流れたのは77年。この成功を受けて、ほかの選手にも入場テーマ曲をかけることを全日本は決定する。人気外国人選手だったドリーと弟テリーの「ザ・ファンクス」には「スピニング・トーホールド」が選ばれた。 「スピニング・トーホールド」とは、ザ・ファンクス2人の得意技でもある「回転足首固め」のこと。ロックバンドのクリエイションが、技をイメージして作ったという。あの蔵前国技館の大会では、ブッチャー&シーク組を破った優勝セレモニーでも流された。会場がまるでロックコンサートのように盛り上がったのを覚えている。 昨年1年間だけで5回も入院した私は、病院のベッドで何度も「スピニング・トーホールド」を聴き、自らを鼓舞し、勇気と希望が自然とみなぎってくるのを感じた。 「テリー! ありがとー」 47年前のあの日、私は蔵前国技館で感極まり、右腕からおびただしい流血をしながら立ち上がり続けたテリーに、声をからしながら声援を送った。どんなに痛めつけられても諦めない不屈のガッツや身体を張って兄ドリーを助けにいく兄弟愛は、ファンの感動を呼んだ。 興奮気味で帰宅した私は、翌日、学校で試合の模様を延々と語り、プロレスの面白さをクラスメートに伝えた。