「人間が絶滅しないかぎり、カルト問題はなくなりませんよ」――オカルトで現代を照らす、ムー編集長の悟り
私たちの生活に息づいているさまざまな「儀式」
そういった宗教が内包する儀式性は宗教だけではなく、私たちの生活のさまざまな面にも実は息づいていると指摘する。 「たとえば卒業式、入学式、結婚式なども儀式といえます。あらゆる儀式の根本にあるのは『死と再生』です。結婚式なら独身であるというペルソナが1回死んで、夫婦という新しい人格を持って再生する。結婚式のドレスは真っ白ですが、日本の法事ではもともと参列者の喪服の色は白だったんですよ。昔の花嫁は『元の家の人間としては死んだ』という意味で白無垢で結婚し、その袖を切って白喪服にして、最後は白装束にした。同じ着物を仕立て直して着回したわけです。儀式でいうと、卒業式も中学校でいえば中学生というペルソナは1回死んで、そして高校の入学式で高校生として再生する。儀式はすべからくそう」 三上氏の話から考えると、私たちは日常的に儀式性を帯びていることに慣れているのかもしれない。伝統宗教においても、いけにえの概念とひもづいている面がある。 「イエス・キリストが人類の罪を身代わりになって背負い十字架にかけられた、という教えなどもいけにえを思わせますが、いけにえをささげる儀式は古代から世界中にあって、ある種、密儀なんですね」
「人間がしていることなんて古代から変わらない」
アステカ、マヤ、インカ文明などでも人間をいけにえとしてささげる風習があったことが知られている。そしてその背景には、ただ単に何かをお願いするだけではない「交換関係」があるのだと三上氏は言う。 「神社でお参りするのも、おさい銭をささげてお願いごとをかなえてもらうため。『お願いをかなえてもらうという欲望』と交換しているわけです。カルトの過大な献金も構造的に同じ。お金ってなんですか? 根底にあるのは価値で、価値を数字にしたものがお金。価値というものの裏付けが欲望です。食欲に対し食べ物があるわけで、そこに価値が生じる。食べ物が欲しいという欲望を交換する時に媒介として貨幣を使う。物々交換もそう、関係というのはみんなそういうものです」 人間がしていることは古代から変わっていないということか。 「何も変わってないですよ、人間なんか」と、三上氏は笑う。 「メソポタミア文明のシュメールの粘土板、よほどすごいことが書いてあると思うじゃないですか。でもそんなことない。『あいつは借金返さないから許せない』とか、『あいつら三角関係になってる』とか、『息子が頭が悪くてしょうがない』とかって、そんなことをぶつぶつ書いているんです。人間、変わってないのですよ。いまだに戦争して殺し合いしてるじゃないですか。これからも変わらないですよ」