芸能や演芸は役に立たないと言われても、「笑いはやっぱり必要」――福島出身の落語家・三遊亭兼好と席亭の11年 #知り続ける
しかし翌年、震災と原発事故が発生。福島市内も水道や電気が止まり、沿岸部や山間部から住民が避難してきた。直後は、立花さんも避難所で炊き出しなどに加わったという。 迷いはあったが、落語のファンである常連さんたちの声を受けてもめん亭寄席も復活。2014年7月13日には、飯舘村から避難していた人たちを市内のホールに招き、福島出身の落語家・三遊亭兼好師匠が高座に上がった。
「2010年に今の場所に店を構えた開店当初は、飯舘牛をメニューの中心に据えた牛肉専門店だったんです。旅行情報誌の『るるぶ』などにも取り上げていただき、県外のお客さまにもたくさん足を運んでいただきました。でも、震災で飯舘村が大変なことになってしまい、みなさんご苦労なさっていました。そんな時に兼好師匠に来ていただき、飯舘村のみなさんが『だいぶ笑ったことなかったけど、こんなに笑ったのは久しぶり』と言っていただいたのがうれしくてね」 それ以来、兼好師匠はもめん亭に定期的に出演するようになった。何より、立花さんが兼好師匠に惚れ込んでいた。 「兼好師匠の全部が好き(笑)。とにかく明るいし、粋。普段から洋装ではなく、着物で移動されていらして、小物にまですべてお洒落が行き届いている。それに高座が終わったあとのお酒の席にもお付き合いくださって、そこでもいつも楽しそうで……」
復興に笑いで挑む福島の落語家・三遊亭兼好
今年52歳を迎えた落語家・三遊亭兼好師匠は、福島県会津若松市の出身。東京を拠点としつつも、いまも福島との絆を大切にしている。 兼好師匠は二松学舎大学を卒業後、様々な職業を転々としたのち、28歳で『笑点』メンバーである三遊亭好楽師匠に弟子入り。10年後の2008年に真打ちに昇進した。
「二ツ目から真打ち昇進を機に好二郎から兼好に名跡を変えましたが、そのお披露目の記者会見が乗っ取られちゃったんです。亡くなった先代の圓楽師匠が『楽太郎に六代目円楽を襲名させる』ということで、その席でやっちゃえということになりまして。まあ、当代の六代目円楽師匠からは、気を遣っていただいて会場費を上回るご祝儀をいただきましたし、私もマクラでその話をさんざん使わせていただきましたので、オッケーです(笑)」 晴れがましい日を横取りされたのだから、恨み節のひとつもあってよさそうなものだが、それをポジティブに語ってしまうあたり、兼好師匠の人柄がうかがえる。 いまも兼好師匠の落語を聞くと、気持ちがなんだか「まあるく」なる。 ただ、真打ちに昇進してからの道は、決してなだらかだったわけではない。真打ちになって4年目、年齢も不惑を超えてどんどん売り出していこうという時期に東日本大震災が起きた。 「お披露目が終わって落ちついて、まさにこれからっていうときの震災でした。ただ、特に会津若松の場合は、被害としてそれほど大きくなかったわけです。会津は雪国ということもあり、気質として我慢強いところはありまして、地震に関しての被害は仕方がないと受け入れていたと思います。ただ、福島に関しては原発事故があったことで、10年以上が経過した今も、どこか引っかかっているところがあるでしょうね」 真打ちになっていた兼好師匠には、震災の前後から故郷・福島とのつながりから生まれた仕事が多くなり、それがいまへとつながっている。