謎の古代文明タルテッソスはなぜ突然消えたのか、未解読の文字も、2700年前に西欧で最盛期
タルテッソスの始まり
最も議論の的となっている問題の1つは、タルテッソスがいつ成立したかだ。20世紀後半まで、ほとんどの専門家は、タルテッソスが現れたのは青銅器時代までさかのぼると考えていた。 青銅器の文化は、イベリア半島南西部のウエルバ、セビリア、カディスの集落の間、つまりタルテッソスの中心部となる広大な地域に広がっていたと考えられていた。そうであれば、タルテッソスは、フェニキア人の最初の植民地ができる紀元前10~9世紀より前から存在していたことになる。 しかし、考古学的な発掘調査が進むにつれ、この仮説はあり得そうになくなってきた。「タルテッソス後期青銅器時代」と呼ばれる時期について語る著者もいるが、紀元前12~11世紀にかけてイベリア半島南西部に明確な定住地があったことを裏付ける有力な証拠はほとんどないのだ。 一方、鉱山からの原材料の輸出や農業を基盤とした新興の社会組織なら、存在していた可能性がある。考古学者は、この時代、ウエルバ近郊にコミュニティが存在した証拠を発見している。 遺跡やその他の場所で発掘された遺物からは、このコミュニティが大西洋世界との交易に長けていたことが示唆される。ウエルバ産の銅で作られた製品は、現在のフランスやブリテン諸島など遠方でも発見されている。 このような確立された交易網は、現在のセビリア北西部にあるアスナルコリャルなどの数多くの銀鉱山から利益を得るのに役立っただろう。
イベリアのフェニキア人
カディス湾周辺のこれらの初期の交易コミュニティは、フェニキア人の到来によって大きな変貌を遂げた。東地中海の繁栄した都市から来た商人たちが、イベリア半島南西部に恒久的に定住したのは紀元前9世紀のことだった。 フェニキア人の植民者たちは、神々を祭る神殿を海岸沿いに建てることから始めた。これらの施設は、宗教的な目的を果たしただけでなく、交易のための中立的な空間にもなることで商業でも重要な役割を果たした。カディス近郊のメルカルト(ヘラクレス)神殿は、この2つの目的を持っていたようだ。 フェニキア人はすぐに、「工場」と呼ばれる恒久的な施設を建て、その後、最初の植民地を建設した。 そうした新しい都市植民地の1つであるカディスは、この地域で最も重要な経済、政治、宗教の中心地となった。カディスは銀、スズ、魚の塩漬けを輸出するための主要港として機能した。そのような鉱産物や農業製品は、ウエルバからも内陸部からももたらされた。 フェニキア人は、定住した地域に革新をもたらした。鉄、ラバなどの雑種動物、ブドウやオリーブの木などの植物種、ろくろ、陶器の炉などを持ち込んだのだ。また、交易に不可欠なアルファベットも導入した。 建築にも影響を与えた。フェニキア人は直交構造(直角)を好み、それがより複雑な都市設計を生み出した。紀元前9~8世紀にかけて、これらのことが現地の人々の経済と生活様式を大きく変えていった。 植民地化の初期のこの時期、イベリア半島の地元社会は、東部からの植民者の存在に徐々に適応していった。この統合がどのように発展したのかを、考古学者はより探ろうとしているが、人々は内陸部から沿岸部の植民地に移住したようだ。 労働力は膨れ上がり、新たな都市や神殿、交通路の建設に必要な職人や労働者だけでなく、鉱夫や農民もやって来た。グアディアナ川とタホ川流域では、有力なエリート戦士が、フェニキア人の鉄や先端技術と引き換えに労働力を提供したのかもしれない。これらの内陸部では、地元の商人がフェニキア人に金やスズ、農産物を提供したのだろう。 フェニキア人はイベリア半島の植民地に大きな影響を与えたが、その変化は不均一だった。 例えば、グアダルキビル川流域やカディス湾などの人口の少ない地域では、やって来たフェニキア人は自分たちの都市を建設し、先住民を取り込むことができた。一方、ウエルバでは、より確立された経済と明確な社会構造がすでに存在しており、フェニキア人の影響力は弱かった。 フェニキア人、先住民コミュニティ、内陸部の人々が互いに影響し合い、現在タルテッソス文化と呼ばれる文化が生まれたのは、紀元前8世紀のことだ。「タルテッソス」という言葉がギリシャの史料に初めて登場するのは、さらに後の紀元前7世紀だ。