次世代のために意見のキャッチボールを――移り変わる時代に、サザン桑田佳祐が音楽で生む「コミュニケーション」
ローカルな音楽屋として、“世間の娯楽”チックでいたい
レコードが売れた昭和の時代も、CDが売れた平成のJ-POP隆盛期も経験してきた。そんな時代だったからこそ抱いた夢もあったという。 「日本人がアメリカのビルボードホット100で1位を取った歌は、1963年の『上を向いて歩こう』(坂本九。英題は『SUKIYAKI』)以来、60年もの間、一曲も出ていない。僕もそれを密かに人生の目標にしていた時期もあったんだけど、未だ叶わない。それこそ坂本龍一さんは“音楽家”として“世界のSAKAMOTO”になった。でもサザンは、自虐じゃないけど、ローカルな“音楽屋”が似合っている。ドメスティックで、ガラパゴスなりの良さというか、そこは我々なりに大切にしておきたい。“世界”ではなく“世間の娯楽チック”でいたいんですよ」 近年では80年代の日本のポップスが海外でシティ・ポップ・ブームとして注目されたり、日本語のポップスが海外チャート上位に躍り出たりするケースもある。 「サザンもいつかそういう恩恵にあずかれるといいんですけどね(笑)。今はアニメの主題歌がすごい勢いだし、これからも韓国やほかのアジアの国からは新しく強力な音楽が出てくるでしょう。文化的リサイクルじゃないけれど、そうした今の音楽の流れを、かつて僕たちが洋楽に憧れたみたいに、日本人らしく咀嚼(そしゃく)されたものが世界に向けて形になっていくような時代が、いつかまたやってくるような気がしますけど。かつての浮世絵や絵文字ではないけれど、優れた面白いモノは日本にいっぱいあるからね」
若いスタッフに支えられて、無限の可能性も
サザンという母屋に対する意識も変わってきた。 「昔はサザンが重荷で、ある種面倒な時期もありましたけど、今はこのフラッグのもとに帰ってこられる大切な場所。もしサザンがなかったら、僕もメンバーも今頃バラバラの藻屑になって漂流していたかもしれない」 「ある意味、僕も含めてメンバー全員、大人として成長出来なかったような気もします。若い頃のままで純粋培養させてもらえた。周りのスタッフが、こぼれ落ちないようにしっかり支えてくれたおかげというかね。だって67、8のジジババが、普通だったらこんな風にステージで飛び跳ねたりしないじゃないですか(笑)」 今、サザンを支えるスタッフは、桑田よりも二周り以上若い世代を中心に構成されている。 「僕らがデビューした頃なんて、周囲は年上ばかりだった。だからそれなりに色んなことを教えてもらった。それがどんどん僕らのほうが年上になっちゃって。だけど若いスタッフとは“対等”以上の関係性の中で、彼ら彼女らから学ばせてもらうものが多々ある。そんなありがたみを感じますね」 「今はサザンというイメージの器があって、そこにひょいと飛び込んでメンバー達と音を合わせることで、リアルとは違う化け方が出来る。20代の頃の『栞(しおり)のテーマ』という曲で『彼女が髪を指で分けただけ/それがシビれるしぐさ』なんて歌っていますけど、今じゃ実生活でそんなシチュエーションなんてもう有り得ないし、シビれもしない(笑)。でも若いスタッフが作ってくれるステージに飛び込むと、その“仮想空間”の中で無限の可能性を感じたりもするんです。歌いながら、音楽の世界の中で不埒な恋もしちゃったりするわけですよ」