「昭和な大衆酒場」はなぜ時代を超えて愛されるのか--酒場詩人・吉田類が語る歴史 #昭和98年
おいしい酒と料理が気軽に楽しめる大衆酒場。戦後の高度経済成長からバブル崩壊、コロナ禍を経てなお多くの世代を惹きつけるのはなぜか。「酒場詩人」の吉田類は、戦後に大衆酒場が栄えた原動力には、全国から上京した若者の存在があったと分析する。都市の再開発やコロナ禍により閉業する店舗も増えるなか、心安らげる居場所であり続ける大衆酒場について、明治期創業の老舗居酒屋で歩みと魅力を聞いた。(取材・文:杉山元洋/撮影:下城英悟/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
“東京の右側”で戦後成熟した昭和の酒場文化
「どうして大衆酒場は居心地がよいのだろう?」 その理由を「昭和の文化や雰囲気に触れられるから」と話すのは、「酒場詩人」の吉田類。風情あふれる名酒場を訪ね歩き、テレビ番組で紹介して20年になる。 「昭和20(1945)年、終戦の焼け野原から高度経済成長を経て、世の中の空気が経済最優先になりました。そして昭和と平成のはざまでバブル経済が崩壊するとその反動か、大衆酒場に漂う“古き良き昭和の郷愁”が心を満たしてくれることに気がつきました。そんな名酒場を訪れてテレビで紹介することにしたんです」 東京の大衆酒場は、地図でいうと“東京の右側”、皇居の東に広がる城東地域を中心に発達してきたという。その原動力となったのは、第二次世界大戦後に焼け野原となった東京を復興するため、全国から上京してきた若者たちだった。 「一旗揚げようと東京に単身乗り込んだ若者の多くは、物価の安い下町で暮らし始めました。一日の労働を終えて部屋に帰っても、家族や夕食が待っているわけでもない。そんな彼らを大衆酒場が受け入れてくれた。帰宅前に立ち寄って、焼酎を炭酸水で割ったハイボールなどとモツ焼きで明日のための英気を養い、部屋に帰るというルーティンが自然にできあがったんでしょうね」 昔から下町は“来る者は拒まず”という気風で、見知らぬ独り者を受け入れてくれた人情の場所。とくに団塊の世代が社会人となった昭和40年代に、多くの大衆酒場が生まれたようだ。 「戦後から20年経つと、働き手も少しずつ余裕ができて、ビールや日本酒にも手が届くようになってきた。手ごろな値段で落ち着いて飲食できる“心安らげる居場所”を誰しも一つくらいはもっていたんです」 地方出身者からとくに愛されたのが「秋田屋」(浜松町)や「福島屋」(駒場) など、店主の出身地を屋号にする店。 「故郷の名を酒場に見つけ、『言葉も通じるだろうし、なつかしい料理があるかも』と、郷里に帰ったような思いに浸れたはず。慣れない都会暮らしの中で心の支えになったと思います。現在の日本の礎を築いた彼らが昭和に体験した記憶の残り香が、大衆酒場にはまだ漂っていますよね」