「浮島丸事件」がミステリー化した元凶、日本政府が「ない」と言い続けた乗船者の名簿が見つかった 79年後に開示された資料が語るもの
遺族は、親や夫の名前をそこに見つけることで、異郷で確かに生きた証しを手にすることができる。名簿が不完全であることから生じる不信感よりも、「ない」と突っぱねられた時の不信感の方が大きい。「ない」とされたものがあった時の不信感は、なお大きい。 ▽全面開示すべきだ 布施さんはこう語る。 「名簿はやはり存在していた。厚労省の説明は詭弁(きべん)だ。真相究明を求める被害者らの思いに応えるためにも、存在する名簿を出すべきだった」 「裁判中、外務省と厚生省が資料の扱いを巡って協議した文書も開示されたが、中身は黒塗り。名簿を隠そうと協議したのではと疑う」 「事件は、日本による朝鮮半島の植民地支配と朝鮮人の強制動員がなければ起きなかった。日本政府には説明責任がある。黒塗りではなく、名簿を含む関連文書を全面公開すべきだ」 ▽補償金を渡そうとしていた戦後日本 開示された20種以上の文書を読み解くと、終戦直後の大日本帝国は記録を残そうと腐心し、戦後の日本は朝鮮人犠牲者に補償しようと模索していたことが分かってきた。
戦後2カ月の1945年10月、大湊海軍施設部労務主任は「死没者全員に対し、1名につき1200円支給を決定。朝鮮へ送金不能のため、朝鮮人連盟に渡されたし」と記録している。朝鮮人乗客の多くは軍属で、海軍が使役していた。補償は当然だと考えていたのだろう。 1946年3月、第二復員省(海軍の後継組織)総務局長名の文書は、在日本朝鮮人連盟(朝連)と補償交渉をしたことを記録している。だが、乗船者を「6千数百人」と主張する朝連と、日本側の3735人とは大きな開きがあった。 政府側は、用意した「扶助料」を国庫に戻した。正直に「当方としての弱点は乗船朝鮮人の正確なる名簿を有せざる点」とも記している。そして、大湊地方復員局長官に対し、正確な名簿を送るよう求めている。 これを受けた大湊長官からの回答が、前に記した3735人の数字と「70人程度の便乗者」の文書だ。ここには、生存者は3211人とある。