「浮島丸事件」がミステリー化した元凶、日本政府が「ない」と言い続けた乗船者の名簿が見つかった 79年後に開示された資料が語るもの
複数ある名簿のうち、これまでに開示された名簿は3種類ある。海軍や企業が作成したとみられるものだ。 青森県の大湊海軍施設部「乗船名簿」の表紙にはなぜか「8月24日乗船」と記載がある。沈没した日だ。「総員2429名」とも記されている。2ページ目以降は「職種、氏名、生年月日、本籍地」の欄がある名簿が続く。しかし、個人情報を理由に、欄内は全てマスキングされていた。 第4部隊長名の名簿は333名が記されているようだが、これも全て黒塗り。表紙には8月19日とあった。 日本通運大湊支店「浮島丸乗船朝鮮人名簿」も同じように黒塗りで、末尾に「以上144名」と記されていた。日付は8月22日。 未開示の他の名簿は、別の会社のものだ。 名簿の他に開示された文書もある。大湊地方復員局長官の1946年4月19日の文書では、朝鮮人乗客数として、大湊海軍施設部2838人、海軍施設協力会及び日通897人、計3735人とあった。政府発表の人数と同じだ。
ただ、「強引に便乗した者も少数おり、船上で追加名簿を作成したが、沈没で喪失。推察するに70人程度」とも記されていた。 1950年に作成された第二復員局残務処理部長の文書では、この「70人程度」が「便乗者200~300人であろう」と増えていた。 ▽文書官僚主義 合わせて20以上の開示文書を読み込んだ私たちの正直な感想は「敗戦直後の混乱の中でも、大日本帝国の末端部署は、きちんと記録を残す努力をしていたんだな」というものだった。緻密に一人一人の名前が記されており(黒塗りで見えないが)、文書主義の官僚の仕事が分かる。 これを信じれば、混乱の中で乗り込んだ人(70人程度、もしくは200~300人)を含め、乗客数は4千人余りだったと推察できる。 こうした資料があったのならば、日本政府が早い段階で公表していれば、韓国で「6千~8千人」という説は広まらなかったかもしれない。遺族の不信感も薄らいだはずだ。