「ユウキミヨシ」を知りませんか?ロシア人女性が日本で出会った“桜の下の奇跡”
戦後、ロシアに残された家族が、日本に帰った父親を探すことは、時に何も知らずに穏やかに暮らす人々の心をかき乱すことでもあるという。ノンフィクションライター・石村博子氏がシベリア民間人抑留の現実に光を当てる。本稿は、石村博子『脱露 シベリア民間人抑留、凍土からの帰還』(KADOKAWA)の一部を抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● 「シベリアの話は一切しなかった」 ロシアの家族との交流を断った息子 2018年4月、結城誠太郎氏(仮名)あてに手紙を出した。ロシア女性のタチアナという人が、祖父である「ユウキミヨシ」氏を捜している、いろいろ調べた結果、あなたのお父様と推察するに至った、どうぞご検証いただきたいとの文書に、ソ連時代の結城三好氏(仮名)の写真を同封して投函。祈るようにして結果を待った。 1週間後、誠太郎氏に電話をかけた。固定電話の数回のコールの後に男性が出て「私の父親です」と答える。ビンゴ!と心臓が音を立てる。 拒絶の感がなかったので、少し質問をした。誠太郎氏は質問に対して淡々と短く答えてくれた。樺太・豊原で暮らしていたこと、終戦後すぐ母親と自分たちは引き揚げたが、父親は樺太に残ったこと、母親の実家は北海道だったこと、シベリアから引き揚げ後は資源回収業についたこと……。 「ロシアに女の子がいることは知っていましたか?」 「いや、シベリアのことは一切話さなかった、誰にも何も言わなかったと思う。この手紙でそんなことがあったのかと初めて知った」 「これを契機にロシアの家族と交流するおつもりはありませんか?」 と投げかけてみる。
「いや、そんな気はありません」。 これ以上話す気はないという答えぶりに、突然の失礼を詫び、電話を打ち切るしかなかった。受け入れてくれれば誠太郎氏が住むZ県まで訪ねて行って、と思っていたのだが、それは無理な要望であることは確かめる必要のない雰囲気だった。 とりつく島のない拒絶はショックだったが、何も知らない家族にとって、受け入れがたいものがあることは容易に想像できた。 事実を伝えるということは、穏やかに暮らしている家の戸を突如こじあけて、乱暴にかき乱す侵入者のようなものである。だが、一旦知ってしまったら再び放置することは許されないのではないか。 誠太郎氏の返答をタチアナさんに伝えるのはつらかったが、彼の言葉をそのまま述べていくしかなかった。タチアナさんはここで初めて、祖父の生年と死亡年を知ることになった。 ● 一縷の望みにかけたタチアナの思い ロシアと日本から見放された祖父 間もなく、結城三好氏の息子のところまでたどり着いたことのお礼と「私たちはユウキミヨシの息子さんの意見を尊重します。75歳という息子さんの年齢を考えると、気持ちは理解できます」という返事が来た。