ネット中傷被害問題を考える リアル権力がサイバー空間の「個室の群衆」を取り締まる意味
群衆的な犯罪から個人を特定する
人間が集まって群衆を形成すると、ある種の興奮状態におちいり、過激な行動に走ることが知られている。「群衆心理」というものだ。政治的な過激派も、サッカーのフーリガンも、非行少年たちも、一人でいるときには想像できないような暴力的行為に走ることがある。それでも警察は、誰が首謀者で誰が実行者かと、特定の個人を追及して犯罪を立件する。 2017年に、1971年に起きた過激派と機動隊の衝突(渋谷暴動事件)において一人の巡査に油をかけて火だるまにしたとされる中核派の男が再逮捕された。証拠と証人の正当性が問題視されているが、それは別として、46年も前の事件における明らかに群衆的な犯罪の中から執拗に個人を特定して立件しようとする警察の執念を感じた。仲間が残酷に殺されたことに始末をつけたかったのか。警察小説に定評のある横山秀夫の作品には、警察組織に仲間意識と面子意識の強いことがよく描かれている。 江戸期の農民一揆などでは、リーダーが分からないよう、血判状を円形にした。封建時代には、集団の構成員全体を処罰することもあったろう。一蓮托生というやつだ。しかし近代的な法体系においては、たとえ群衆的犯罪であっても、あくまで個人の犯罪として扱おうとする。つまり日本人の「周囲に同調しやすい」という性格と現代司法体系とのあいだに、ある種の緊張関係が認められるように思える。
「個室の大衆」と「個室の群衆」
しかし今回、被害者を自殺に追い込んだのは、同じ群衆でも、過激派やフーリガンや非行少年たちのような「街角の群衆」ではなく「個室の群衆」による犯罪である。 これまで何回か「個室の大衆」という言葉で、ネット社会の人々の思想的性格について書いてきた。 日本人の多くが個室を獲得したのは比較的最近のことだ。ふすまや障子で仕切られた日本家屋にはプライバシーが成立しにくく、しっかりした個室をもつのは、書斎を構える必要と余裕のある人に限られていた。高度経済成長のあと、2階に子供部屋があたりまえという時代になり、大衆も個室を獲得したのだが、それは家族内のさまざまな事件(たとえば金属バット事件)にも、またヒキコモリ現象にも結びつけられた。そこにインターネットという、いかにも個室向きなコミュニケーション・ツールが登場して「個室の大衆」が社会的に浮かび上がる存在となった。 メディアは大衆の思想傾向を増幅させる。 活字メディアの時代、民意の主体は「街角の大衆」であった。政治家は、街角あるいはそれに準ずる広場や集会所に集まった人々に演説することによって票を集める。集まった人々は、大衆であるだけでなく群衆でもあるから、扇動されやすい側面もあり、デモや、暴動や、革命のエネルギーにもつながった。 テレビメディアの時代、民意は「茶の間の大衆」によって形成された。テレビの前には老若男女、幅広い層が集まるので、穏健で中道的なタテマエの意見が支配しがちだ。思想的には保守化する傾向にある。 インターネットの時代、それぞれの部屋でネットにつながれた「個室の大衆」が民意の主体となる。ウェブサイトを見たりメールで連絡を取ったりしているだけなら「声なき大衆」にとどまっているが、SNSによって発信するようになると、大衆の声が社会に届きはじめる。時にその声は特定の話題に集中し、いわゆる炎上が起きて、大衆の一部は自分で意識しないままに「群衆」と化す。思想傾向は流動化する。 今回、当局はネット社会において、匿名での悪質な発信を、一種の群衆的犯罪として認知し、 その中の個人を特定することによる検挙に乗り出したとも考えられる。今の時代、たとえ個室にこもっていても、いったんネットに入れば、気づかないうちに犯罪的な行為に走る可能性があるのだ。ネットユーザーはそのことに気づく必要がある。これもリテラシーというものだろう。考えてみればネット上の発信者は道路を走る自動車に似ている。交通ルールと同様にネットルールを教える必要があるかもしれない。運転免許と同様にネット免許が必要かもしれない。 ネット社会は、大衆・群衆・個人の関係をダイナミックに流動化させるのだ。