【証言・北方領土】択捉島・元島民 長谷川ヨイさん(3)
おっきいべ。今年、ここ行ってたんだもん。古釜布沼行くと、爺爺の岳眺めてくる。今はあれもだめ、これもだめって。ここ行ったときもね、写真写したらだめだって。ここへ行ったら、興味あるなあ。ここ。前はね、ずっとこの墓地のほうまでね、やってくれたけどね、今はね、とんでもない、こっちのほうで墓参すんだよ。ここ行かれない。ね。 ここいっぱいうち建ってるでしょ。いっぱい住んでると思うでしょ、ロシアの人。ここしか住んでないんだよ。だからね、この辺なんかね、季節労務、魚、建網か何か、だ、もう、その人方にさ、五、六人いるだけ。あと、住んでる人はいない。 ―島の生活はいい思い出? 思い出。ね。冬はスキー、もうスキー大会、牧草畑、おっきいしょう。うちの牧草畑と隣の牧草畑ちょびっと借りて、すっごいスキー場んなる。お正月ね。うん、そしてね、雪の山から山に、こんなのなるね、雪庇っていうのか、あんなとこ、はねたら、ざっきり刺さってさ、スキー折れちゃうんだ、先っちょね。「折れた」って持ってくるとね、一晩寝て起きたら、ちゃんとできてる。うちの父がちゃんとつくった。 ―お父さんは何でもできる。 何でもできる。凧なんて描かせたもんだったら上手だ。ねぶたの。もう尻尾もみんなつけて、ビューっと。もうほんっと器用な人だった。そしてね、魚の皮で靴つくんだよ。アメマスって魚あるでしょ。あれをね、夏にとってね、はらだけ割いてね、陰干しにするでしょ。そして、夕方なったら、きれいにね、皮に傷つけないようにね、皮をね、はいでね、今度、干す。それをね、靴にすんの。 そして、底はね、トドの皮。トドの皮ね、あのトド、海にスイーッと入ってっけどね、丘上がって、靴履いたらね、滑なんだと。そして、魚の皮はね、風通さないんだと。ねえ。
「島に帰りたい」が叶わなかった母
―ご両親は強制送還後、島での暮らしについて語ったことはあったか? ある、ある。やっぱり、何ちゅうのかな、島は生活楽でしょ。土地も肥えてるし、ね、資源もあるし。ね、体動かせば動かすほど、あんた、儲かるじゃん。そうじゃない。ね、そしてね、よそからばっかりの寄り集めでしょ、人間がね。だから、みんな仲いい。みんなね、親戚、兄弟みたいになっちゃってね、仲いいんだわ。ね。だから、そういう点を、青森辺り引き揚げていったら、兄弟たちが貧乏なってから帰ってきたら、兄弟なんか要らねえやってな顔ね、されて、あんなの見たらね、島のほうが、みんな、あんた、どうした、こうしたって、みんな助け合って生きてるっしょ。ね。そういうのから、母は「やっぱり島に帰りたい」って、1回も帰ることなく死んだからね。 ―ご両親は島を離れてから青森の出身地域に? そうそうそうそうそう。だけども、青森が、もうこんなね、兄弟たちもこうだから、何だ、引揚者、引き揚げってばかにすんだ、青森の人ね。そしたらね、いやあ、根室行ったら、近所の人いっぱいいるから、根室行きたいって言ってるときに、うちのね、2番目の兄がね、シベリアのね、戦争ね、入隊して1週間でね、終戦なったでしょ。現地入隊だったからね、で、4年シベリア。そして、4年たって帰ってきた。帰ってきてからね、こんな青森にね、いじめられていることないってね、根室にね、建網にね、夏来てね、お金稼いで、そして、根室にうち買って、親を根室に呼んだ。だから、島の人もいっぱいいるし、すぐ近くだし、うんといいなって暮らしてたよ、あの人方。 ―島で生活していたとき、何人くらいの集落だった? 30軒。うん。入里節30軒で、岬の向こうにも10軒ぐらいあったから、今、一緒に引き揚げが、一緒だからね。10軒からあってね。だから、みんな、全部のうちの名前知ってるちゃ。全部うちのその村の人の顔知ってるさ。(私も)目に浮かぶさ、名前も。