不妊治療、3回の流産を経験、高齢出産で2人の息子の母に。コロナ禍での祖母の死が息子たちに与えた影響とは?【俳優・加藤貴子】
キラキラのママたちを見て「自分はダメだ」と落ち込んだ
――たまひよONLINEでの初期の連載「私だって新米ママ!」では、子育ての大変さもつづっています。 加藤 母乳を飲ませながらの育児と仕事と家事で寝不足の中、時間に追われる日々は想定をはるかに超えた大変さでした。だけど、その大変さをだれかに相談したり、助けを求めたりすることができなかったんです。自分と同じように不妊治療で苦労している人もたくさん見てきたので、子育てが大変って口に出すことはぜいたくだ、と思う気持ちもありました。それに「育児が大変!」と口にしたら、「覚悟の上で高齢出産したんでしょ?」と言われるんじゃないかと恐れていたこともあります。 「子育てはママの笑顔がいちばん!」って聞きますけど、気がつけば洗面所の鏡に悲壮感たっぷりの自分の顔が映っているような日々で、笑顔どころではありませんでした。自分もブログをやっているから、ほかのママたちのブログも参考に見てみると、みんなキラキラしておしゃれを楽しんでいるし、お部屋での写真もきれいに片づいていて。それを見て、子育てでいっぱいいっぱいの私は「ダメな母親だ」と落ち込む日々でした。 ――加藤さんのお母さんも高齢で頼れなかったとか…。 加藤 私が第1子を出産したときには実母はもう70代後半でしたし、ひざも悪かったので、母1人に子どもをまるっきりあずけることは、母にも負担になってしまうだろうな、と。子どもをおばあちゃんの家にあずかってもらっているママたちがすごくうらやましかったです。そんなときに、「たまひよ」さんから連載のお話をいただいたんです。 高齢でも子育ては初めてのことばかりで、たくさん失敗したり悩んだりしていました。私自身が自分の悩みや不安をだれかと共有したかったので、とてもいい機会をいただきました。連載の原稿を書くことで、自分の不安や困りごとと向き合うことができて本当に貴重な時間でした。
息子たちが大好きなばあばとの別れ
――2022年、同居していた加藤さんのお母さんが他界されました。息子さんたちはどのように受け止めていましたか? 加藤 私の母とは東京で同居していたんですが、母に用事があって静岡の実家に戻ったときに急に具合が悪くなってしまいました。姉の手配で救急搬送されて意識のない状態で1週間ほど頑張ってくれたのですが、コロナ禍でお見舞いもかなわぬ中、病院から呼び出されたので、息子たちも連れて向かったら、私たちが到着するのを待っていたかのように、母は帰らぬ人となりました。 子どもたちからしたら、元気に「いってきます」と出かけたはずのばあばが、急に危篤状態で医療機器に囲まれていて驚いたと思います。当時小学1年生だった長男は、母が息を引き取っても「ばあば、一緒に帰ろう」と必死に何度も何度も呼びかけ続けていました。医療スタッフの方たちは、長男の気が済むまで声をかけさせてくれました。30分ほど呼びかけたところで「もう、ばあばを見送ってあげようね」と伝えました。 ――大好きなばあばだったんですね。 加藤 ばあばは子どもたちにとって、無条件で愛してくれる絶対安全な避難場所だったんです。私にしかられたあとは、必ずばあばの部屋に行って、なぐさめてもらったり味方になってもらったりしていました。葬儀後しばらくしてから、ばあばのベッドの中で長男が「僕はこれからだれに甘えたらいいの? だれとお話すればいいの?」と泣いていた姿が忘れられません。 二男はまだ4歳で、死についてよくわかっていなかったと思います。でも病院からの帰り道で「なんだかこわかったから声が出なくなっちゃったの」と言っていました。たしかに二男は病院でひと言もしゃべっていませんでした。母の死は、私以上に息子たちにとってショックだったと思います。 初七日、四十九日、一周忌などの法要には必ず息子たちも参加させて、ばあばがどれだけ息子たちのことを愛していたかを伝えています。息子たちは、時間をかけてばあばの不在を受け入れているようです。 ――夫さんのお母さんとは今も同居していますか? 加藤 はい。義母は87歳なので、息子たちは自分たちがばあばを助けようという意識が強いみたいです。ばあばが起き上がるのに介助が必要なときは私を呼びに来て手伝ったり、今年の暑かった夏には、「水分補給した?」「お塩なめた?」なんて声をかけたり、なにかと気づかっています。そのたびに義母は「ありがとうね、うれしいよ」って泣いちゃうんです。義母もとっても優しい人です。