森氏の発言に考える 女性尊重の文化をもちながら、女性の社会進出を阻む日本
時代に取り残される日本
僕は歳の離れた末っ子で、生母も継母も叔母たちも姉たちもかなり古い世代に属するのだが、彼女たちの人生は、男尊女卑どころかむしろ逆で、進歩的で、教養もあり、しっかりとした意見をもって、社会に羽ばたき家庭をリードしてきた。特に篠田桃紅という叔母は、伝統的な書道に革命を起こし、単身渡米して世界的な抽象美術に達した芸術家で、その断固たる意志が作品の力となって現れている。彼女に女性であることのハンデについてたずねると「抑えられても抑えられても出てくるのが才能というものだ」と答える。要するに、孤高の創作に立ち向かう一人の人間として、人種や性別など問題にしていないのである。そういう環境で生きてきた僕は、現在よりむしろ戦前から戦後を生き抜いた女性の方が、社会進出に意欲的であったような気もするのだ。 つまり問題は、日本社会が女性蔑視の文化に根ざしていることではなく、現在の社会制度と日本人の意識が、デジタル・トランスフォーメーションはもちろん、気候変動や新型ウイルスの脅威、人種や性による差別などの点で、急速に変化する国際感覚から取り残されていることではないか。今、目指すべき改革は、社会制度の改革であるとともに国民意識の改革でなければならない。またそれはこれまでのように欧米だけを追いかければいいというものではなく、むしろアジアを重視し日々変動する世界全体に目を開くものでなくてはならない。決定的な外圧によらず自主的に大改革を断行するには、女性も男性もよほど覚悟を決める必要があるように思える。 いずれにしろ、政治家あるいはそれに準ずる立場の人の公的発言は、時代の社会力学によって思いもよらぬ大きな反響を呼ぶ。情報のグローバリズムが進行する現代、インターネットも含めメディアの増幅力が大きくなって「国際炎上」ともいうべき状況を招きやすい。公的な人間には、自己の思想信条に忠実であることとともに、その時代の力学を鋭敏に感知し的確に応じる能力が必要とされる。 たまたまオリンピックによって、日本の公的分野における人材不足が露呈された格好ではないか。