「来年は会社がないかもしれない」背水の父に頼まれ、IT企業の息子は福井に戻った 大ヒット老眼鏡でV字回復した「眼鏡の聖地」の企業
◆「福井に帰ってくれ」父の願い、いよいよ来たか…
ペーパーグラスの販売元・西村プレシジョンの母体は、同じく鯖江市にある西村金属だ。 創業1968年。昭宏氏の父で会長の忠憲氏が、卓越したチタン加工の技術を生かし、眼鏡の部品製造企業として発展させてきた。 しかし2000年代、鯖江の眼鏡産業は中国の安価な部品流入に押されて衰退。西村金属も厳しい状況に追い込まれた。 その頃、昭宏氏はいずれ家業を継ぐつもりでいたものの、東京のIT企業に身を置いていた。 ──西村金属は、2000~2003年ぐらいまでが売り上げの底で、2~3億円ぐらいでした。西村さんはいつ会社に戻られたんですか? 2003年です。2年ぐらいで売り上げが半減していくような時期でした。 当時は、IT企業に在籍していましたが、実家が厳しい状況になっていることは、あまり意識していませんでした。 地元にいないと、業界の状況はなかなか感じ取ることできません。 ただ、何となく会社の景気が良くないんだろうなっていう空気感は伝わってきていましたね。 ──どのような経緯で西村金属に戻ったのでしょうか。 2002年末、父から珍しく電話がかかって。「展示会で東京に来たんだ。ちょっと時間あるなら飯でもどうや?」と。 普段、電話なんかかかってきたことがないのに、行ってみると、「今、会社が大変だ。この大変なときは家族だけが頼りだ。家業を手伝ってくれんか? 福井に戻ってきてくれるか?」と初めて父から言われました。 ──それを聞いたときはどのように感じましたか。 いよいよきたかと思いました。私はその場で即答して「わかった、帰るよ」と。 あとで聞いた話ですが、父は東京に来る前、従業員に「来年は会社がないかもしれない」と告げていったらしいです。 あのとき、私が帰ると決めなければ、会社は存続していなかったかもしれません。
◆業界依存からの脱却へ
──2003年に西村さんが戻り、2003年の売上げ2億円を2009年に5億円と、倍以上に回復させました。いったいどんな仕掛けをしたのでしょうか。 鯖江に戻ってきたとき、眼鏡業界は厳しい状況でした。 どんどん市場が縮小しているのに、新たな仕事を取っていくことは不可能に近いことでした。 それなら、眼鏡以外の仕事にチャレンジしようじゃないかって思いました。 ──多角化を図ったということですか。 当時の西村金属は眼鏡業界の売り上げが100%を占め、常に眼鏡業界の浮き沈みに左右されるような経営状態でした。 メガネフレームの部品を作る設備は、汎用性が高く、眼鏡以外の部品もつくれるんじゃないか、眼鏡以外の業界のお仕事のお手伝いができるんじゃないかという思いもありましたので、業界依存からの脱却にチャレンジし始めました。