中村歌六 『熊谷陣屋』白毫弥陀六「義太夫狂言の爺役には力が要るんですよ」【ぴあアプリ「ゆけ!ゆけ!歌舞伎“深ボリ”隊!!」特集より】
石屋の爺と侍とを瞬時にスイッチする
――正体のばれた弥陀六は、花道から本舞台に戻り、三段に腰かけ、義経とグッと見合います。 歌六 「かく弥平兵衛宗清と見られた上は、いかに」で肌脱ぎして「義経どの」で正面を向き直ります。それまではずっと義経と見合ったまま。ここで頭巾も取り、弥陀六実は宗清だと明かします。 ――手にしていた数珠は三段に行ってから懐にしまっているんですか。 歌六 僕は花道から戻ってくるときに、数珠は後見に渡し、草履も脱いでいます。これもいろんなやり方があって、数珠は懐にしまい、草履を三段の下に蹴り込むという方もいます。あるいは三段の間に数珠を落とすとかね。 ――義経に呼び止められて戻ってくるときには声はもちろんのこと、もはや体つきさえ変わっているように見えます。 歌六 石屋からもう侍の宗清に戻ってますからね。声も強くなります。 ――そして宗清が嘆く長い台詞があります。 歌六 自責の念ですよね。いい人のつもりで頼朝と義経を助けてしまったために平家は滅亡した。平家が滅びたのは自分のせいだ、自分は重罪だと。ただこの狂言の基になっている平家物語では、宗清は義経のことは助けてはいないんですよね。頼朝のことは確かに助けているんですが。 ――確かにこの弥陀六の長台詞の中でも、頼朝については「頼朝を助けずば」ですが、義経については「あの時こなたを見逃さずば」というニュアンスの違う言い方になっています。 歌六 頼朝がお父さん(源義朝)と逃げているとき迷子になってしまい、そこを助けてやったんですよ。宗清は平家の侍ですがそれほど身分の高い人ではなく、平頼盛の家人でした。その母の池禅尼を通じて平清盛に助命嘆願したんです。頼朝はこの時の恩を覚えていて、平頼盛は後に鎌倉幕府に呼ばれて重用されます。でも宗清は共に行かなかった。それを頼朝が嘆いたと言われていますね。 そして宗清は平重盛公の忘れ形見の娘と、祠堂金と偽って三千両の黄金を預かり、武門を離れ石屋となって、播州一国那智高野、平家のゆかりの場所に石塔を建てていくんです。 ――あのくだりで、この人はどれだけの距離を歩いて石塔を建てて菩提を弔ってきたのだろうと想像させられます。 歌六 実際に熊野道にはお地蔵様があるらしいんです。「弥蛇六(ルビで「やたろく」)」という名の男を追悼した石碑も。ちなみに熊谷ゆかりの碑は京都の黒谷にあって、蓮生となった熊谷と敦盛の石塔が並んでいます。終盤に「我はこれより黒谷の」という熊谷の台詞がありますからね。南座出演の時、朝のウォーキングがてら行ったことがありますよ。 ――この浄瑠璃の作者はそのあたりもきっちり取材して書いているのでしょうね。 歌六 どこにゆかりの石碑があるか、おそらく全部知っていますよ。この時代の作家はほんっとに物を知っていますから。この狂言に限らず、役を勤めていて「この作者、さては現場まで行ってるな」と思うことがあります。 ――そして宗清は「獅子身中の虫とは我がこと」と嘆きます。前回歌六さんに登場いただいてお話をうかがった『義経千本桜 すし屋』の弥左衛門や、『摂州合邦辻』の合邦のような子供を亡くした父親の嘆き方とも違いますね。 歌六 侍ですからね。わあわあとは泣かない。怒りと悔し泣きですよ。くわ~~っと両手を頭につっこんでかきむしるから、鬘がぼさぼさになってしまうんです。なので床山さんには毎日なでつけてもらわなきゃいけなくなるのですが、そうさせてもらっています。それと肌脱ぎしたときに下に着ている着物に書かれているのは、亡くなった平家の武将達の名前なんです。相当昔の公達の名前もあるんですよ。義経が活躍する時代よりずっと前の時代のね。皆さんご存じの有名人ばかりでもない。武将たちの名前が書かれてない衣裳を使う方もいますね。