「丸本歌舞伎」は、歌舞伎の知名度アップのために生まれた!?【古典芸能 “好芸家” のススメ】
ようこそ、“好芸家”の世界へ。 「古典芸能は敷居が高くてむずかしそう……」そんな思いを持った方が多いのではないだろうか。それは古典芸能たちそれぞれが持つ独特の魅力が、みなさんに伝わりきっていないからである。 写真はこちらから→「丸本歌舞伎」は、歌舞伎の知名度アップのために生まれた!?【古典芸能 “好芸家” のススメ】 この連載は、明日誰かに思わずしゃべりたくなるような、古典芸能の力・技・術(すべ)などの「魅力」や「見かた」にみなさんをめぐり合わせる、そんな使命をもって綴っていこうと思う。 さあ、あなたも「好芸家」の世界へ、一歩踏み出そう。 第18回は歌舞伎。歌舞伎の数多い演目の中には「丸本歌舞伎」と呼ばれるジャンルがある。他の歌舞伎との違いや特徴、そして「丸本歌舞伎」になくてはならない「竹本」の存在と合わせて、その魅力をお伝えしよう。 文/ムトウ・タロー
人形浄瑠璃の名作を歌舞伎にアレンジ
歌舞伎の演目には、大きく分けて「義太夫狂言」といわれるものと「純歌舞伎狂言」といわれるものがある。 「義太夫狂言」とは、もともとは人形浄瑠璃(文楽)のために書かれ、後に歌舞伎に取り入れられた作品のことをいう。人形浄瑠璃では義太夫節を用いるため、この名がついている。 今や歌舞伎の三大名作と言われている『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』などは義太夫狂言に該当する。ようは、三大名作と称してはいるが、純粋な歌舞伎の演目ではなく、人形浄瑠璃の演目が元になっているのだ。これに対して「純歌舞伎」は、はじめから歌舞伎のために書かれた作品である。 義太夫節を歌舞伎に移すのは1708(宝永5)年ごろから始まっているが、1715(正徳5)年に近松門左衛門(ちかまつもんざえもん、1653~1725)の『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』が京都・大坂(大阪)や江戸で相次いで歌舞伎化されたのが流行のきっかけとなり、以来『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』など数多くの名作が歌舞伎に移入された。 なぜ人形浄瑠璃の作品が歌舞伎に取り入れられたか。端的に言えば、人気獲得のためである。18世紀の中ごろは、人形浄瑠璃が歌舞伎と比べて人気の高い時代だった。「人形浄瑠璃の作品を、人間である俳優が演じることで、観客を増やそうと歌舞伎界が考えた」というのが通説である。 この義太夫狂言を「丸本歌舞伎」と称したのが、20世紀を代表する演劇評論家・戸板康二(といたやすじ、1915~1993)である。「丸本」とは、浄瑠璃の詞章の全編を一冊に収めてある版本のことである。「丸ごと」という意味での「丸」、あるいは一冊を丸めていたという逸話から「丸」の意味を持っている。また「院本」と書いて「まるほん」とも読ませる。