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「代表チームからクラブサッカーへ」 日本サッカーの平成史を振り返る

杉山茂樹スポーツライター
「ドーハの悲劇」1993年(平成5年)10月28日 写真:アフロスポーツ

「世界との圧倒的な差」を埋めた外国人監督招聘

 昭和から平成へ。昭和64年1月7日に行われる予定だった全国高校サッカー選手権準決勝は、昭和天皇崩御に伴い2日間延期された。試合が行われた駒沢陸上競技場は、ほぼ満員に埋まるも応援が自粛されたため、厳かで深々とした、なんとも言えぬ空気感に覆われていた。

 当時、日本のサッカー界を代表するイベントといえば、高校サッカー選手権と「トヨタカップ」だった。日本代表戦やJリーグの前身である日本リーグ等は、そのメインストリームにはなかった。

 日本代表は1986年メキシコW杯最終予選で、最後の韓国戦に勝てばW杯初出場という段まで漕ぎつけたが、0-1、1-2で惜敗。続く1990年イタリアW杯予選では、最終予選にさえ進めない惨状だった。

 世界と日本との間には計り知れない開きが存在した。

 契機が訪れたのは1992年(平成4年)。それは閉ざしていた門が開いた瞬間でもあった。日本サッカー協会はオランダ人のハンス・オフトを外国人指導者として初めて日本代表監督に招聘。すると、その秋に広島で開催されたアジアカップで初優勝を遂げる。日本代表のレベルは、世界のスタンダードが感覚的な表現ではなく、通訳を介した的確な日本語で伝えられたことで大きくランクアップした。

 同大会はそれ以降、8度開催されているが、その中で日本は3度(通算4度)優勝を飾っている。いまやアジアでは1、2を争う強国として鳴らす日本だが、上昇に転じたきっかけはここにある。

「ドーハの悲劇」で沸騰したサッカー人気

 そして翌1993年、日本初のプロサッカーリーグ=Jリーグがスタート。華々しいムードに包まれた。それと平行して1994年アメリカW杯予選も行われた。日本はカタールのドーハで開催されたセントラル方式の最終予選に進出。本大会行きの切符は2枚で、現在の4.5枠より数段、厳しい設定だった。

 6ヶ国で争われるリーグ戦の最終戦、対イラク戦を前に、オフト率いる日本代表は首位に立っていた。イラク戦に勝利すればW杯初出場はその瞬間、確定した。試合は後半のロスタイムまで日本が2-1でリード。事件は最後の最後に起きた。CKから同点ヘッドを叩き込まれ、悲願は夢と消えた。

 これが俗に言う「ドーハの悲劇」になるが、悲劇とは言うものの、当時の日本のレベルは悲劇と自身を可哀想がるほど高くなかった。実力的にはアジアの4〜5番手。むしろ善戦と言ってよかった。

 世の中は盛り上がった。中継したテレビ東京の視聴率は48.1%に及んだ。同時に放送されていたNHKBSの分まで含めると、50%どころか60%近くに昇ったと思われる。悲劇と言いながら、エンタメ性としては上々で、「ドーハの悲劇」は、サッカー人気沸騰の起爆剤となった。

サッカーがプロスポーツとして確立した日

 悲劇が歓喜に変わったのはその4年後。1998年フランスW杯アジア予選を日本は晴れて突破した。1997年11月、マレーシアのジョホールバルでイランと戦ったアジア地区のプレーオフ。2-2で迎えたゴールデンゴール制の延長戦で、途中交代の岡野雅之が決勝弾を決め、日本はようやくW杯の出場切符を手に入れた。中継していたフジテレビの視聴率は47.9%。ドーハの悲劇と並ぶ高視聴率を叩き出した。サッカーが野球に迫るプロスポーツとしての地位を確立した瞬間と言ってもいい。

「ジョホールバルの歓喜」1997年(平成9年)11月16日 写真:アフロスポーツ
「ジョホールバルの歓喜」1997年(平成9年)11月16日 写真:アフロスポーツ

 2002年W杯が韓国と日本の共催に決まったのはその前年だった。しかし、過去にW杯に出場したことがない国が開催国になった前例はなく、日本のフランスW杯出場は、至上命題になっていた。アジア最終予選は、まさにプレッシャーが掛かる中での戦いだった。国立競技場で行われたその3戦目の韓国戦に敗れると加茂周監督更迭論が浮上。続くカザフスタン戦に引き分けると、協会は大鉈を振らざるを得なくなった。後から振り返るなら、この更迭劇がエンタメ性を高めるスパイスの役を果たしていた。

 この更迭劇は、今後にも活かされることになった。2018年3月に起きたハリルホジッチから西野朗への交代劇だ。これは、20年半前の成功体験がなければ起きただろうか。ロシアW杯における日本の好成績(ベスト16)はあっただろうか。平成のサッカー史を振り返るとき、加茂さんから岡田さんへの交代劇は外すことはできない事件になる。

日本代表の低迷と欧州CLの台頭

 1992年のアジアカップ優勝からドーハの悲劇、ジョホールバルの逆転劇を経て2002年日韓共催W杯に至る10年間、日本サッカーは急激な右肩上がりを示した。その前と後ではまさに別世界。世界広しといえども10年の間にここまでの変化を遂げた国はそう多くない。

 前年比20%と言いたくなる強烈な伸長率を示した日本だが、2002年以降、その右肩上がりは止んだ。2006年ドイツW杯では、グループリーグ最下位に沈み、2010年南アW杯ではベスト16入りするも、2014年ブラジルW杯では再びグループリーグ最下位に。2018年ロシアW杯で、再びベスト16入りを果たすも、運に救われた要素なきにしもあらずで、まさに一進一退を繰り返している。世界という壁にぶち当たっている状態だ。

 世界に目を転じれば、平成の30年間に急上昇したのが欧州チャンピオンズリーグのステイタスだ。名称がチャンピオンズカップからチャンピオンズリーグに変更されたのは1992-93シーズンだが、それを機に大会は肥大化の一途を辿った。拍車を掛けたのがボスマン判決で、職業選択の自由(移籍の自由)と移籍金の撤廃を謳ったその内容が1996-97シーズンに施行されると、チャンピオンズリーグの舞台には、世界各地からスター選手が続々と集まることになった。

 日本人初のチャンピオンズリーガーが誕生したのは2001〜02シーズン。最有力視されていたのはフェイエノールトの小野伸二だったが、試合前日(2001年9月11日)、アメリカで同時多発テロが発生。先発が予想された試合はキャンセルになった。その間隙を縫い、日本人初の栄誉に輝いたのはアーセナルの稲本潤一で、マヨルカ戦の後半に交代出場を果たしたのだった。

2001-2002、日本人初のチャンピオンズリーガーに輝いた稲本潤一(当時アーセナル)写真:アフロスポーツ
2001-2002、日本人初のチャンピオンズリーガーに輝いた稲本潤一(当時アーセナル)写真:アフロスポーツ

欧州組ではなく「チャンピオンズリーガー」を

 それから27シーズン経った今季(2018-19)のチャンピオンズリーグに、日本人が何人出場したかと言えば、長友佑都(ガラタサライ)、香川真司(ドルトムント)、西村拓真(CSKA)のわずか3人。しかも香川、西村は各1試合、交替で出場したのみである。これまでの総数もわずか16人(チャンピオンズカップ時代の奥寺康彦さんを含む)止まりだ。

 欧州組は確かに増えた。日本代表もほぼ海外組で占められている。それをかつてと比較し、隔世の感があるとポジティブに捉える人が多いようだが、チャンピオンズリーガーの数はまるで増えていない。W杯の組替え戦と言うべきチャンピオンズリーグに、日本は依然として選手を満足に送り込めずにいるのだ。

 選手のステイタスを示すものと言えば、まず代表試合出場数が挙げられるが、より今日的なのはチャンピオンズリーグ出場試合数だ。日本人歴代最高は香川の33試合。以下、内田篤人(29)、中村俊輔(17)、長友佑都(15)、本田圭佑(11)、小野(9)、岡崎慎司(7)、稲本潤一(7)、長谷部誠(6)、鈴木隆行(4)……と続く。いずれも代表で中心的な役割を果たした選手ばかりだが、W杯でコンスタントにベスト16以上を狙うチームを目指すには寂しすぎる数字だ。日常の活動で、欧州のトップレベルを体験する選手の数がもっと増えない限り、代表チームがW杯本番で大活躍する姿を想像することは難しいのだ。

まだサッカーの真髄に迫ることができていない報道

 欧州のサッカーはその間、攻撃的になった。具体的には後ろで守らず、高い位置からプレスを掛けるスタイルが主流になった。それが選手の技量を上昇させる起爆剤になった。

 たとえば10年前の映像に目をやれば、そのサッカーは古めかしく見える。いまのレベルが最も高いのがサッカーの特性だ。常に右肩上がりを続けている競技。その発展に貢献しているのがプレッシングだ。サッカーの進歩を支えるのはプレッシング。欧州サッカーの近代史を探れば、そうした結論に辿り着くが、日本サッカーは必ずしもそうではない。Jリーグで多く目に止まるのは、後ろで守る非プレッシングだ。守備的サッカーの占める割合は、世界の平均値よりずいぶん高い。これでは選手の技量のみならず、サッカー競技そのものの進歩発展にも貢献しない。結果に目が眩みやすい勝利至上主義に陥りやすいサッカーと言ってもいい。

 メディア報道しかり。サッカーは結果も重要だが、それと同じぐらい中身が重視される。そしてそれに大きく関わるのが監督で、試合内容に強い影響力を持つ。他の競技(特に野球)と異なるのはこの点になるが、日本のサッカー報道は一般的なスポーツ論に走りがちだ。サッカー的ではない。

 選手への批評はあっても監督、指導者への批判はなし。協会への批判ももちろんだ。サッカーの真髄に迫ることができていない。これではサッカーは進歩していかない。

代表よりクラブ ファン気質の変化は加速していくのか

 一方、ファン気質は変化している。1997年11月16日、ジョホールバルのスタンドを埋めたのは日本人のファンだった。その数およそ2万人。翌年、開催されたフランスW杯には、計10万人もの日本人が駆けつけている。その流れは2006年ドイツW杯まで続いた。ところが2010年南アW杯、2014年ブラジルW杯は、現地の治安に難があったこともあるが、駆けつけたファンはごくわずか。2018年大会は、日韓共催W杯を除けば日本から最も近い国、ロシアで開催されるW杯で、ビザも免除されたり、列車も無料だったり、ファンにとってはまさに行き時だった。ところがその数はわずかだった。スタンドの1割にも満たなかった。せいぜい3000、4000人という感じで、少なくとも韓国人には大きく劣っていた。

2018年(平成30年)アジアチャンピオンズリーグを制した鹿島アントラーズ 写真:アフロスポーツ
2018年(平成30年)アジアチャンピオンズリーグを制した鹿島アントラーズ 写真:アフロスポーツ

 今年1月にアラブ首長国連邦で開催されたアジアカップでも日本人の少なさは目立った。日本代表を海外まで追いかけていくファンは激減の一途を辿っている。先のコロンビア戦、ボリビア戦のスタンドを眺めれば、満員には埋まっているものの、青いユニフォームを着て歌い続けるサポーターは大幅に減った。

 他方、Jリーグのサポーターは元気がいい。アウェー戦にも足を運ぶ。アジアチャンピオンズリーグでは、海外のアウェー戦にも大挙駆けつける。アジアカップが行われたUAEは、昨年12月にクラブW杯も開催しているが、その時、駆けつけた鹿島サポーターは、アジアカップ観戦に出かけた日本代表サポーターとは比較にならぬほど多かった。

 熱いのはJクラブ。サッカーファンは代表チームを一歩離れた場所から眺める傾向がある。よく言えば冷静。落ち着いている。こちらが日本代表監督を批判しても、非国民などと書き込まれるケースはかつてより減っている。

 代表よりクラブ。このファン気質の変化は加速していくのか。平成から令和に移ろうとしているいま、とりあえず気にしたいポイントはここだ。日本サッカーをこれまでリードしてきたのは代表チームだが、今度はクラブサッカーが頑張る番だ。あるべき姿は両者の拮抗した関係である。そうでないと本物のサッカー人気は醸成されていかない。日本サッカーには少なからず変化が求められている。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

スポーツライター

スポーツライター、スタジアム評論家。静岡県出身。大学卒業後、取材活動をスタート。得意分野はサッカーで、FIFAW杯取材は、プレスパス所有者として2022年カタール大会で11回連続となる。五輪も夏冬併せ9度取材。モットーは「サッカーらしさ」の追求。著書に「ドーハ以後」(文藝春秋)、「4−2−3−1」「バルサ対マンU」(光文社)、「3−4−3」(集英社)、日本サッカー偏差値52(じっぴコンパクト新書)、「『負け』に向き合う勇気」(星海社新書)、「監督図鑑」(廣済堂出版)など。最新刊は、SOCCER GAME EVIDENCE 「36.4%のゴールはサイドから生まれる」(実業之日本社)

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