さまざまな事情により産みの親のもとで育てられない子どもを引き取り、自分の子どもとして育てる特別養子縁組という制度がある。2017年、政府は特別養子縁組を年間1000件成立させる目標を立てた。だが血縁を重視する日本社会において、特別養子縁組をした家族の実態はなかなか見えてこない。今回、特別養子縁組をした2家族のストーリーを追った。(写真・文=長谷川美祈/Yahoo!ニュース 特集編集部)
3年がかりで夫を説得
西日本に暮らす田村怜子さん(仮名・61)は27歳で結婚した。31歳から不妊治療をはじめ、7年間続けた。
「望めばいつでも子どもはできるものと思っていました。多くの女性が普通にできることが私にはできない。悲しくてつらかったです。子連れを見かけてはねたんだし、コマーシャルに赤ちゃんが出てきても嫌でした。友人が出産したら、にこにこして『おめでとう』と出産祝いを持っていって、家ではわんわん泣いていました」
ある日、同じく不妊治療をしていた友人が特別養子縁組をしたと聞き、「そんな方法があるんだ」と目の前が明るくなったという。
「特別養子縁組」とは、予期しない妊娠・出産など、さまざまな事情から子どもを育てられない実父母から子どもを引き取り、養子にする制度である。実父母との法的な親子関係を解消し、養父母が実子として育てるところが普通の養子縁組と違う。
田村さんは乗り気になったものの、夫は「そこまでしなくてもいいじゃないか。2人で十分幸せだ」と当初は難色を示した。「(養子となった子どもの中でも)感情移入のできる子とできない子がいると思う」と言う夫に対し、田村さんは「そうなったら、父親のフリだけしてくれればいい。私が育てるから」と説得した。不妊治療を続けながら、夫が同意してくれるまで3年かかった。最後の決め手は、体外受精して妊娠した子どもを田村さんが流産したことだった。「こんなにつらい思いをするのなら、もう子どもはつくらない」と帰りの電車の中で田村さんは涙を流した。
「ちょうどそのころ、里親登録完了の通知が届いたので、夫はもうこの道でしか私が立ち直れないと思って同意してくれたのかもしれません」
養父母となるにはまず、講習会に出席して、児童相談所に里親登録をしなければならない。登録後、候補となる子どもが現れると児童相談所から連絡が入る(民間団体に登録する方法もある)。
最初の養子縁組の相談は、実父母の気が途中で変わり、実現しなかった。2回目は田村さんが見送ってしまった。
「赤ちゃんの生まれた背景が気になってしまいました。覚悟はしていたのに、どうしても受け入れられませんでした」
養子を迎えることは自分を知ること
赤ちゃんの出自の背景を聞くことは、自分の心の奥底を試されているようだった。
「自分が育ってきた環境の中で、偏見を持っていました。私の父親は他人に学歴とか才能を求める癖がある人で、私は父のそういう部分が大嫌いだったのに、いつのまにか自分もそうなっていました」
首都圏の児童相談所の職員によると、田村さんのように里親登録をしていても、いざ子どもを目の前にして断ってしまうケースも少なくないという。田村さんのように実父母を気にする人もいれば、乳児院に行って実際に子どもを見て「自分のイメージと違う」「目が合わなかった」と言う人もいる。
「結局それは、養親になる自分の不安の裏返しなんだと思います。自分自身の問題を子どものせいにしちゃっている」(児童相談所職員)
自分の心と向き合うことが、田村夫妻の養子縁組の成立につながった。「来月生まれるお子さんがいます」と3回目の連絡が来て、田村さんは「たとえどんな背景がある子でも引き取る」と覚悟を決めた。
「生後2日目に産院へ会いに行きました。出産室のような部屋でステンレスの棚の上に白い布があって、どこ?って」
白い布の中に、小さい赤ちゃんがいた。
「産んだ人とはほど遠いですね。あまり感動的ではなかったかな」
布ごとふわっと抱いたけれど、実感はなく、不安ばかりだった。生後4日目から母子同室で病院に泊まり込んだ。「死なせてしまわないかしら?」「息をしているのかしら?」と1時間おきにのぞき込んで確認した。世話をしていく中で少しずつ不安が解消され、自分の子としての実感がわき、「かわいい」と思うようになった。あれだけ養子に不安を持っていた夫も、子どもに会った途端、「こんなにかわいい子はほかにいない」と田村さん以上にかわいがった。
「たぶん、どんな子を引き取っても夫はかわいい子と思ったのだと思います」
熱望してようやく手に入れた幸せ
「子どもが思春期のころ、私がよく愚痴を言っていたのですが、夫には『小さいころにたくさんの経験をさせてくれたことを忘れているんじゃないか?』と冗談交じりによくたしなめられました」
一般的には最初は乳児院での交流。そのあと養親家で1泊、そして長期外泊と少しずつ交流の期間を延ばしていき、最後は6カ月を自宅で過ごす「里親委託」へ進む。児童相談所、乳児院の職員のサポートを受けながら家族として過ごし、今度は家庭裁判所に特別養子縁組の申し立てをする。1年かかることもあるという。長い道のりだ。
各児童相談所によって道のりは多少違ってくる。田村さんの場合は、「新生児」からの特別養子縁組で、出産後すぐに「里親委託」がはじまった。
そうやって田村さんが迎えたのが、現在23歳になる娘、楓さん(仮名)だった。
「子育ては本当に楽しかったです。夫と子どもと3人で出かけるのが夢でした。子どもと一緒に家族で過ごせる幸せ、子どもがすることの面白さを共有できる人がいて、この子を一緒に育める喜び。熱望して熱望してようやく手に入れた幸せでした。経験させてくれてありがとう、と娘に感謝しています」
産みの親に会う
楓さんが2歳のころ、田村さんは娘に「あなたの産みの親はほかにいる」という真実告知をした。真実告知は制度として義務づけられてはいないが、里親研修で子どもが小さいうちに告知するよう指導される。
養子縁組をテーマにした明るいお話の絵本で読み聞かせながらだった。楓さんは「私もそうだったの? お母さんもうれしかった?」と何度も尋ね、そのたびに田村さんは「うれしかったよ! ほんとにかわいかったよ」と答えたという。
小学生になると楓さんは「産んだお母さんに会いたい」と言うようになった。大学進学が決まったのを機に市役所で戸籍の付票をもらい、産みの母の住所を探し出し、楓さんが手紙を書いた。
1回目は「会う自信がない」と返事が来たが、2回目の手紙で会えた。当日は、田村さんと楓さんと産みの母の3人でホテルのロビーで待ち合わせた。田村さんは産みの親に「こんないい子を産んでいただいて、託してくださってありがとうございました」と伝えた。産みの母は娘の誕生日を覚えていた。「いつかこんな日が来ると思っていた」と言ったという。40歳独身で、これまで産んだのは楓さん1人だけだった。
楓さんは産みの母に会っても、田村さんへの気持ちは何も変わらなかった。
「直接会って、話をしてからは産みの親も悩んだ末、養子に出すという決断をしたと分かったので、今はただただ産んでくれたことに感謝をしています。産みの母に会う前も、後も、何も気持ちに変化はなかったです。この人が産んだんだなってくらい。知り合いみたいな感じです。母は母(田村さん)だけです」
2人の子どもを迎えた家族
片山茶和さん(仮名・47)は、16歳と11歳の2人の子どもと夫とともに、中部地方で暮らしている。2人の子どもは、特別養子縁組で迎えた。
高校卒業のころに「重度卵巣機能不全」、原始卵胞(卵子のもとになる細胞)が極端に少ない病気と診断された。身体の発達が未熟で、生理もこなかった。片山さんは「子どもが産めないあなたは結婚はできないよ」と自分自身に言い聞かせていた。
だが23歳で結婚した。持病のため、子どもを産むことはできないと結婚を断っていた。
「夫は『治療すれば分からないし、養子という手段もある。俺の遺伝子なんてへでもない。全然いらん』と言ってくれていました。それでも今でも申し訳ないという気持ちが私にはあります」
結婚当初は義父母と同居。持病のことを隠しながら通院も続けていた。「子どもをそろそろ」と言われるようになり、どうにも苦しくなった片山さんは半年ほどで同居を解消する。義父母へは別居してから、手紙で持病のことを告白したが反応はなかった。
「別れろと言われるのも覚悟はしていたけれど。たぶん、なんて言葉をかければよいのか分からなかったのだと思います」
頭を突き抜けた言葉
特別養子縁組について考え始めたのは、25歳で始めたボランティア活動がきっかけだった。脳性麻痺(まひ)の男の子の入浴時の衣服の着脱を手伝う。その男の子が片山さんは初めて会ったときからかわいくてしようがなかった。この子の母親の言葉が、片山さんの心に突き刺さった。
「お母さんが、『私はこの子がいるから幸せ』って言ったんです。障がいがあって大変なはずなのに。でも彼女の言葉にうそはないと感じました。この言葉は私の頭を突き抜けました。『お母さんになりたい』って思うようになりました」
そのあと福祉関係の仕事を始めたためすぐに行動に移せなかったが、ようやく2年後、児童相談所へ相談に行き、翌月には面談、4カ月後には里親登録をした。その3週間後には「今、妊娠7カ月でこれから生まれる子がいますが、お願いできますか?」と電話がかかってきた。
片山さんが面談したその2日違いで妊婦さんが相談に来ていたという。児童相談所の担当者は、その時点で片山さんに託そうと決めていたと後に教えてくれた。引き寄せ合ったかのような縁だった。この時の子が長男・正人くん(仮名・16)だ。
義父母には、引き取ることを決めてから養子の話をした。事後報告だった。反対されたが片山さん夫妻は正人くんを引き取った。反対していた義父母も正人くんに会いに病院へ来てくれた。義母は、「私によう似ている」などと言っていた。
その後、片山さんは2人目の養子縁組を考えるようになった。
「私も夫もきょうだいがいます。親の私たちは、先に死ぬでしょうから、きょうだいで寄り添って、支え合って生きてほしいと思いました」
正人くんを迎えてから5年後、2人目の鈴ちゃん(仮名・11)の養子の話がきた。義父母は再び猛反対をした。正人くんをかわいがってくれてはいたが、義父母にとって、血のつながらない子どもを養子にすることは「苦労」としか思っていなかった。
「どれだけ嫁のせいで息子が苦労しなければならないのか分からない」
義母に言われたこの言葉は、片山さんにとって侮辱に近いものがあった。
「言うことを聞けなくてごめんなさい。でもこの子を引き取らないで死んでいくことはできない。ここであきらめたら私は死んだ後も後悔する。私はお母さんになりたいです」
「おなかの中に娘はいなかったけれど、心の中にはいた」
片山さんは人生初の土下座をした。
「おなかの中に娘はいなかったけれど、心の中にはいた。この子を守る、と必死でした」
長男の正人くんには、4歳の誕生日に真実告知をした。両手を握り、膝と膝をくっつけて、こう言った。
「お母さん、正人くんと会えて、こうして一緒にいられることが本当にうれしいの。お母さん実はね、おなかが壊れちゃっていてね。どうしても正人くんをおなかの中で育てることができなかったの。正人くんはほかの人のおなかから産まれてきたんだ」
彼はじーっと見ていた。
ある日、正人くんは突然遊んでいたおもちゃを投げ出し、泣きはじめた。
「まーくん、今からお母さんの赤ちゃんで生まれてくるから産んで!」
「そんなこと言われたらね~。『よっしゃ~!』ってなりますよ。服の中に息子をくるんで、おなかぽんぽこぽんになって、『わ~、大きくなったわ~』って」
この出産ごっこは4カ月間、数え切れないほど続いた。
保育園のお迎えに行った時に片山さんは担任の先生からある報告を受ける。
お昼寝で寝つけなかった正人くんは先生のおなかの中にもぐってきた。先生は、片山さんから出産ごっこの話を聞いていたので「あーこれか」と思ったそうだ。しばらくして出てきた正人くんは言った。
「ここのおなかは違った」
先生は、「自信持って育て~。私のおなかは違うらしいよ。私はあの子産めんわ~」と笑った。
「本当のお母さんじゃないお母さんなんていない!」
正人くんが小学校3年生のころ、授業参観へ行くとクラスの子数人から「まーくんの本当のお母さんじゃないってほんと?」と聞かれた。そこにはクラスの保護者もたくさんいた。
「は? 本当のお母さんじゃないわけないじゃない。本当のお母さんだよ。ただ産んでないだけ!」
片山さんは、堂々と大きな声で答えた。その子たちに言ったというより、正人くんへ向けて言った。
「本当のお母さんじゃないお母さんなんていない!」
現在は虐待などの事情により親元で暮らせない子どもの8割、3万人以上の子どもたちが児童養護施設などで暮らしている。厚生労働省は2017年8月、「新しい社会的養育ビジョン」を打ち出し、特別養子縁組についてはそれまでの年間成立件数を倍増させ、1000件を目標とすることにした。
今回取材した二つの家庭の人たちはみな、産みの親に感謝の言葉を言う。「産んでくれたからこそ、この子に出会えた」と。そして「育てている私がお母さん」とも言う。血がつながっていなくても、共有する経験や時間を重ねながら、家族はつくられていく。
長谷川美祈(はせがわ・みき)
1973年生まれ 昭和女子大学生活環境学科卒。数年間設計士として勤務した後、写真家として活動を始める。2017年、児童虐待をテーマにした手作り本『Internal Notebook』がオランダのUnseen Dummy Award で特別賞を受賞。ドイツ、オランダ、モスクワ、中国など世界各国の写真祭や写真集のフェアで展示されるなど、評価を得ている。日本における子どもや女性の社会問題をテーマにプロジェクトを実行中である。
https://www.miki-hasegawa.com/
[写真]
撮影:長谷川美祈
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝