1980年度生まれのプロ野球選手たち、いわゆる「松坂世代」が夕暮れどきを迎えている。彼らは主力選手としてプロ野球界をけん引してきたが、年齢と世代交代の波によって退団・引退が相次いでいる。象徴である松坂大輔投手も現役続行を目指し新しい球団を探している状況だ。一方で1980年度生まれの社会人の松坂世代は厳しい時代背景のなかで今年37歳、社会の中核として働く年齢である。松坂投手の甲子園春夏連覇が1998年。あれから約20年が経過した松坂世代の社会人における生き方を見つめる。(ライター・神田憲行/Yahoo!ニュース 特集編集部)
消費される覚悟を持つ
タレント・壇蜜さん
「松坂さんの活躍をメディアで見るたびに、彼は高校を出てあんなに稼いでいるのに、自分は大学まで親の金を使ってもらって全然稼げてなくて、どうなんだろうと思っていました。松坂世代なのにって言われるのが嫌でしたよ。その気持ちは今もどこかにあります」
と語るのは、女優・タレントとして今や大活躍の壇蜜さんだ。松坂世代を自認しながらも、そう見られるのが嫌だったという。
大学卒業時の就活では40社ほどにエントリーシートを出したが全滅。「次、行ってみよう」と再び立ち上がる気力を失った。
「自分を諦めた瞬間がありましたね。当時の私はゴミみたいな存在でした」
松坂大輔投手と同学年のプロ野球選手は「当たり年」といわれる。藤川球児(阪神タイガース=プロ入団当時、以下同)、村田修一(横浜ベイスターズ)、杉内俊哉(福岡ダイエーホークス)など、90人を超える選手がプロ野球に入った。
彼らはいつしか「松坂世代」と呼ばれるようになり、野球とは関係のない社会人の1980年度生まれの人たちも「松坂世代」と呼ばれる社会現象になった。
だがプロ野球の松坂世代とは違い、社会人の松坂世代は最初から華々しいスタートを切れたわけではない。
大学を卒業した壇蜜さんは、母親の知人らと和菓子屋さんを立ち上げる計画が持ち上がり、和菓子作りの専門学校に入学するが、知人の急死でこれも頓挫。壇蜜さんは和菓子工房に職人として入社した。だが任された餡作りがうまく行かない。失敗するたび、他の職人たちが聞こえよがしにため息を漏らした。彼らは和菓子屋の二代目、三代目として修業に来ている人たちで、若い女性は壇蜜さんひとり。
「君、なんでここにいるの?」
という空気が痛かった。
昼食時にふとテレビを見ると、同年代の俳優が「僕は男だけど引っ張ってってくれる女性が好きだなあ」と笑顔で語るのを見て、「勝手なことばかり言いやがって」とお弁当のポテトサラダを箸でこねくりまわした。
壇蜜さんにとって松坂世代とは、
「ごくひと握りの人には濃厚なツキがあって、ツイてない人はごっそりツイてない世代」
という。
これまで和菓子職人のほかに葬儀会社勤務、会社の受付嬢、銀座ホステスなど転々としてきたが、どれも3年も続かなかった。29歳で芸能界デビューしたときも「これも3年でやめるんだろうな」と思ったという。
それが今まで続いたのは、働くことに新しい価値観ができたことだと壇蜜さんはいう。その気づきを得たのは、デビューして間もない撮影会だった。アマチュア写真家のモデル撮影の被写体となっているとき、ふとした弾みで、参加者が撮影会の主催者に参加費を払っているのが見えた。
「ああ、私は被写体だけど、撮った写真はその人のものだし、カメラの中の私と今生きている私は違う。でもそうやってサイクルが回るなにか小さい世界のようなものが見えたんです。私はこうやって回るもんだって。今でも『壇蜜のカレンダー』を作っても、私もカメラマンも印刷業者も同じレベルの存在、カレンダーを作る裏方のひとりだと思っています。そしてそのチームが幸せならそれでいいんです」
消費される覚悟を持つこと。それが壇蜜さんの生き方になった。
組織にとどまるという決断
富士ゼロックス・大川陽介さん
壇蜜さんは松坂世代を「ツキのなさ」で説明するが、それを「ゼロからのスタート」と読み替えるのが、富士ゼロックスに勤務する大川陽介さんだ。
「僕らは物心ついたときから世の中はネガティブなんですよ。失って惜しいものはなにもないから、ゼロスタートで、前を向くしかありません」
大川さんはイベントなどを仕掛ける「秘密結社 わるだ組」という有志による社内組織を2012年に立ち上げ、それをベースに大手企業に勤める若手ビジネスパーソンの横断組織「One JAPAN」を昨年起こした。働き方や生き方について、メディアに発信している。
大川さんがいう「ゼロスタート」とは、松坂世代の時代背景を指している。
1980年度生まれの人は小学生時代にバブル経済が崩壊し、青春期がすっぽり「失われた10年」に覆われている。高校卒業を目前にした1997年に山一証券、北海道拓殖銀行が破綻し、日本経済が危機的状況に陥る。就職状況は改善せず、リーマン・ショック(2008年)、東日本大震災(2011年)など、社会的な大事件にも翻弄(ほんろう)された。
だが、大川さんは「ゼロスタートだからこそ、いろいろできた」という。
「僕らの上の世代は就職超氷河期でごっそり抜けていたんですよ。会社の中で背中を追うべきロールモデルがいなくてつらかった」
「僕らは上がなにも与えてくれないことが、すでに生まれたときからはっきりしているんですよ。だったら自分たちが楽しいと思えることを自分たちで仕掛ければいい」
大川さんがそう考えたきっかけが、2008年のリーマン・ショックだ。社会全体でコストカット、売り上げ主義が加速し、窮屈になっていく。大川さんも会社を辞めようかと思い詰めたころがあった。そのとき、先輩社員の「もっと会社のなかを見てみろ」というひと言にハッとした。
「大企業にはやはり豊かなリソースがあるとわかったんです。それはモノとかカネじゃなくて、ヒトでした。社内で『ああ、この人と働きたいな』と思える人にたくさん会いました。僕は企業にとってもっとも重要なものは文化とか風土だと考えています。ひところ『大企業病』とか言われましたけれど、なんで諦めてんのって思う」
そして2011年に東日本大震災が起きた。
「自分たちの価値観をすごく考えました。僕らの世代も会社を辞めてNPOを立ち上げて地域に貢献しようみたいな人たちがいっぱいいましたから。でも僕は会社のリソースを使ってなにかできないか考えた。CSR(企業の社会的責任)活動とかいっぱいありましたし」
それが「秘密結社 わるだ組」「One JAPAN」につながっていく。
大川さんは自らの活動を「個性のかけ算」という。
「簡単にいうと『踊れるデブ』です。僕は仕事はSEのあと営業をやって、資格も取り、社内外で活動しています。そうやってかけ算して、自分を尖(とが)らせていきたい」
大川さんのこの生き方に、松坂大輔投手の存在がある。実は大川さんの祖父母は練習から見に行くくらいの横浜高校野球部のファンで、「あなたと同じ学年ですごい投手がいる」とよく聞かされていた。
「意識して見ていましたけれど、自分は松坂さんみたいな怪物になれないのはわかっていたので、違うやり方で自分なりの価値観を作りたいと、すごく思っていました」
ここが同世代の壇蜜さんと違うところだ。松坂投手を世代の「イコン(象徴)」と認めつつも、比較するのではなく、違う価値を大川さんは模索したのである。
遠回りしても、自分でまず気づくこと
楽天イーグルスヘッドコーチ・平石洋介さん
壇蜜さんも大川さんも、松坂大輔投手の活躍を遠くから見つめながら、松坂世代として時代を生きてきた。
では松坂大輔投手と正面から間近に向き合った者はどう生きてきたのか。
東北楽天ゴールデンイーグルスで来季からヘッドコーチに就任する平石洋介さんは、1998年春夏の甲子園で、松坂投手擁する横浜高校と対戦したPL学園の元主将である。二度とも敗れたものの、とくに夏の延長17回の死闘は、いまも伝説の名勝負と語り継がれている。
2005年に社会人野球から、創設されたばかりの楽天イーグルス1期生として入団し、2011年に現役を引退して、そのまま同球団のコーチに就任した。1軍現役通算成績は打率2割1分5厘、1本塁打、10打点。期待された成績は残せなかった。
「僕、現役時代は後輩の選手から『松坂世代の外れのトライアングルや』と呼ばれていましたから」
と平石さんは爆笑する。
「外れトライアングル」と呼ばれたのは、「当たり年」と言われた松坂世代で、成績がパッとしない選手が当時の楽天に3人いたからである。ずいぶん失礼な後輩だが、平石さんは「いいんですよ」と笑いながら手を振る。
「松坂世代と呼ばれて嫌な気持ちはしないですよ。あいつのおかげで注目されたし、プロに入る前に折々にあいつと話をしてプロという存在を身近に感じられました。直接あいつに会ったやつで、松坂世代と言われるのを嫌うやつはいないんじゃないですか」
現役のユニホームを脱いだあと、平石さんは育成コーチ、1軍打撃コーチ、2軍監督などチーム内の指導的立場を網羅・横断的に経験してきた。そういう人はかなり珍しいだろう。
だが当初、球団フロントからコーチ就任を打診されたときは悩んだ。実績がモノをいうプロ野球界、1軍で「外れトライアングル」と言われた自分の言うことに選手たちが耳を傾けてくれるだろうか。後押ししたのは世代の責任感だった。
「高校時代の恩師であるコーチに相談すると、『お前の世代でコーチは初めてやろ。そういう道を切り開く挑戦もいいんちゃうか』と言われて決めました。現役選手をやめるというより、新しい挑戦が始まったと考え直したんです」
コーチに就任した年齢が31歳、選手と年齢が近いこともあって、まず平石さんは「選手と腹を割って話すこと」を心がけた。若い選手と本音の関係を築き上げた成果で、直近の2軍監督としてはイースタンリーグで球団初の連続2位という成績を残せた。
6年間の指導者経験で、平石さんが学んだのは、「教え過ぎず我慢すること」だという。たとえば若い選手が自分で考えた練習への取り組みが、間違っていると思ってもすぐには訂正しない。
「若い選手がもがいて、苦しんで考え出した取り組みなら、まずそれを尊重したい。すぐ『それをやめてこれをやれ』みたいに型にはめるコーチがたまにいるんですが、僕はそうしたくない。遠回りしても、自分でまず気づくことが大事。そして選手が相談してきたらすぐ応えてあげる」
真似すべきロールモデルがなく自分なりのコーチ像を模索してきた平石さんの姿は、大川さんの言葉と重なる。
では平石さんから見て、「松坂世代」の松坂大輔投手の生き方はどう見えているのだろうか。
「大輔は本当に野球が好きなだけなんだと思いますよ」
と、平石さんは松坂投手の胸の内を代弁する。
「考えてもみてください。たとえば大輔があのまま引退したいといえば、球団は盛大な引退試合をやってくれたでしょう。指導者になりたい、解説者になりたいといってもオファーが殺到する。お金も困らない。そこであえていちばん苦しい選択をしているんです。そういう生き方を選んだのが、大輔らしい。そこを僕は尊敬します」
望めば叶うあらゆる選択肢のなかで、松坂投手が選んだのが、自分の意思だけではどうにもならない現役続行だった。野球選手としての栄光を浴び続けた人物が、積み上げたキャリアをいったん白紙にして、新たな挑戦をしようとしている。来年1月下旬には中日ドラゴンズの入団テストを受けることが決まった。球団を通じて発表された松坂投手のコメントは「チャンスをいただき感謝しています」だった。
神田憲行(かんだ・のりゆき)
1963年、大阪市生まれ。関西大学法学部卒業。大学卒業後、ジャーナリストの故・黒田清氏の事務所に所属。独立後、ノンフィクション・ライターとして現在に至る。主な著書に『ハノイの純情、サイゴンの夢』、『「謎」の進学校 麻布の教え』など。
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