やると決めたら、絶対に成し遂げる。
大学生のときに思い描いた夢も、移住の計画も、社員とともに掲げた目標も、達成してきた。
それが、千葉ジェッツの代表取締役を務める島田慎二(46)の手腕である。
昨年の9月22日、バスケットボールのプロリーグとして産声をあげたBリーグ。売上高も、観客動員数も、トップを快走しているのが、船橋市をホームタウンにして、来シーズンからは「千葉ジェッツふなばし」という名称へ変更するクラブなのだ。大企業がスポンサーのチームや東京にあるチームをも、ジェッツは上回っている。
経営面での成功に引っ張られるように、チームはバスケットコート上での実力もつけてきた。1月に開かれたプロとアマが集う天皇杯ではチャンピオンとなった。
新たな船出をしたばかりのバスケットボール界の象徴となったのがジェッツであることに異論はない。
そんなクラブを引っ張る島田は、バスケットボールは未経験。この世界では異色の経営者が成功を収めるに至った手法と、モチベーションの源となる想いとは――。(スポーツライター ミムラユウスケ/Yahoo!ニュース 特集編集部)
40歳でセミリタイアの夢
「大橋巨泉さんに憧れていて、ゆくゆくは、カナダのバンクーバーとオーストラリアのゴールドコースト、そして京都を行き来するような生活をしたいと思っていたんですよね」
島田はそう語る。
島田が大学生のとき、当時、芸能界の第一線で活躍していた故大橋巨泉がセミリタイアを宣言した。大橋は仕事のペースを落とし、日本の冬の時期にはオーストラリアやニュージーランドで、夏には暑さを逃れてバンクーバー、そして春や秋は日本で過ごすような生き方を選んだ。
40歳になるまでにセミリタイアをしよう。そして、じっくりと取り組めるような仕事を探そう。島田は、そんな生活を思い描いた。現代風にいえば、ハイパー・ノマドといったところだろうか。
後に2人の娘に恵まれることになるのだが、将来は家族が困らないだけの財産も築かないといけないと考えた。だから、大学を卒業以降、猛烈に働いてきた。
1992年、旅行会社に入社し、3年間勤めた後に、共同経営という形で旅行会社を設立。25歳で経営者に。2001年には、法人向けの旅行事業を中心にコンサルティングも行う会社を旗揚げする。そして、2010年1月、39歳のときに会社を売却した。
思い描いたセミリタイア生活が実現するまであと少し。国内外を旅するなかで、惹かれたのが福岡で、2012年1月から移り住むと決めた。
引っ越しの準備を進めていたころだった。bjリーグに参戦したものの、早々に経営に行き詰まった千葉ジェッツの再建プランを立ててほしい、という依頼が舞い込んできた。島田はビジネスの第一線を退いていたが、2011年12月、経営コンサルタントとして、ジェッツにおもむいた。財政状況や、当時のバスケ界について調べながら、40ページほどの再建計画書を提出した。
それで、終わるはずだった。
だが、ジェッツの運営会社の口座に残されていたのは数百円。シーズン終了後には膨大な赤字が出ても不思議ではない。そして、現在はジェッツの会長を務める道永幸治にこう言われた。
「君に社長を引き受けてもらえないなら、ジェッツはつぶしてしまうことになるかもしれない」
「1年くらいなら」と考え、2012年の2月から社長の座につくことになった。福岡に居を構えた翌月のことだった――。
バスケはわからないけど経営ならわかる
当時のジェッツはbjリーグに所属していた。現在のBリーグはbjリーグとNBLという2つのリーグが統合してできた経緯がある。
NBLは、企業の援助を受けていた実業団が主体となっていたJBLの流れをくむリーグだった。一方のbjリーグは、プロリーグで、エンターテインメントを重視した2005年に始まったリーグである。NBLは、歴史のあるJBLとbjリーグの2つが存在する状況に終止符を打つために2013年に立ち上げられたが、bjリーグからNBLに参加したのはジェッツだけ。結局、2つのリーグが存在していることを国際バスケットボール連盟からとがめられ、それがBリーグの設立につながる。
島田が社長についたのは、bjリーグの2011-12シーズンの後半戦だった。
そこで掲げた短期的な目標は、初年度での黒字化。中期的な目標としては、bjリーグからNBLへ移ることだった。対立していた2つのリーグの懸け橋となりたかった。長期的な目標は日本のバスケットボール界が一つになり、ジェッツを日本一幸せなクラブとすることだ。
短期的な目標である黒字化については、スポンサーに頭を下げて回ることで解決した。将来への期待を込めたお金や、寄付に近い形で寄せられたお金。そこに微々たる入場料収入などを合わせ、どうにか黒字につなげた。
当時のbjリーグのクラブを経営している者の多くは、バスケットボールへの愛を胸に経営に挑戦し始めた人たちだった。一方の島田は、バスケには詳しくないが、経営者としてのキャリアがあった。
「バスケについては詳しくはないが、経営は得意だという特徴は、バリューを見せつけやすい面はあるのかなと感じていましたね。それに、そういう経営面の資質が業界には必要だという感覚がありました」
島田はそう振り返る。
最初のシーズンが終わると、2013年の秋からスタートするNBLへの加入を正式に表明した。
「適当にやっていれば、1年で辞めていたかもしれません。でも、私の性格上、一度でもかかわると、『絶対に再建してやる』と思ってしまうんです。それに、リーグまで変えると宣言していながら、『1年で辞める』なんて、とうてい言えないじゃないですか。結局、自分でドツボにはまっていったというか……」
満面の笑みで、島田は当時を振り返る。自分のなかに燃えたぎる情熱を感じた島田はセミリタイアという夢は横におき、福岡の家は1年あまりで引き払い、家族とともに千葉に根を下ろすことになった。
島田はクラブとして短期から長期の目標を立てる一方で、経営危機に陥っていた千葉ジェッツを再建し、大きな組織にする過程を「ホップ、ステップ、ジャンプ」の3段階に分けて考えた。
「再建プロセスとして、まずは『資金注入』。次に、『選手獲得』。その先に、『集客』が来るんです」
中期的な目標として掲げたNBLへの転籍は、この「ホップ」と「ステップ」の部分につながってくる。
「資金注入」のためには、さらなるスポンサーが必要だ。そこで考えたのは、船橋市を拠点とする地の利と、実業団を母体とする強豪チームが5つもあったNBLの構図を最大限の売りにすることだった。
「船橋市はベンチャー企業が盛んな地域なので、みなさんにスポンサーになっていただくチャンスはありました。ただ、当時の我々の広告価値をいくら訴えたところで、相手にはされません。私自身もベンチャー出身なのでよくわかるのですが、ベンチャー企業というのは、心意気に動されるんです。戦国時代で例えるなら小国にあたる千葉ジェッツが、大企業のサポートを受ける大国に向かっていく。このストーリーは、彼らの心に響きました」
スローガンは、「打倒トヨタ」に決めた。当時のNBLにはトヨタ自動車を親会社に持つチームがあった(現在のアルバルク東京)。
もう一つ、スポンサーを口説くために大きかったのが、当時のNBLにあった1億5千万円というサラリーキャップの存在だ。選手の総年俸を定める、健全経営のためのルールだった。
「トヨタという大企業でも、1億5千万円しか使えないのが当時のルール。そのおかげで経営的に楽だったという意味ではありません。当初、うちが選手の年俸にかけられるのは5千万円くらいだったのですが、サラリーキャップとトヨタのおかげで明確な指針を提示することが出来たんです」
口説き文句は「あと1億円でトヨタを倒せる!」
折しも、トヨタがちょうど1兆円超の営業利益を計上した時期だった。熱を込めてスポンサーを口説いたのはこんなセリフだった。
「あと1億円を集められれば、世界のトヨタを倒すだけの土俵に上がれるんですよ! しかも、あなたに1億円を払っていただきたいわけではありません。みんなで1億円を集めて、トヨタを倒しましょう。というわけで、仲の良いベンチャー企業の方も紹介していただけませんか?」
その効果は、クラブの売上高の推移に目を向けるとよくわかる。
bjリーグでの2シーズンはそれほど大きな変化はない。
2011-12シーズン 2億1500万円
2012-13シーズン 2億3400万円
NBLへ移ってからの伸び具合は目をみはるものがある。
2013-14シーズン 2億5200万円
2014-15シーズン 3億7900万円
2015-16シーズン 6億200万円
総額1億円で日本一になれるかもしれないのなら、と次々とスポンサーが集まってきた。こうして、スポンサー売り上げが一番のチームへつながる道がひらけたのである。
現在のBリーグでは、チーム名から企業の名前は外されている。サラリーキャップもない。明確な指針は、あのタイミングだからこそ描けたものだった。
お金が集まる仕組みが成長していくめどが立つと、次の段階である「ステップ」、つまり「選手獲得」へと突き進んでいった。他のチームで優勝した経験のある選手を集めたり、実績のある外国籍選手を獲得したりできるようになった。
その下地が整って初めて、「ジャンプ」にあたる「集客」に取り組める。
千葉ジェッツの1試合平均の観客動員数の推移は以下の通りだ。
2011-12シーズン 1143人(bjリーグ)
2012-13シーズン 1248人(bjリーグ)
2013-14シーズン 1432人(NBL)
2014-15シーズン 1909人(NBL)
2015-16シーズン 3574人(NBL)
NBLへ移ったタイミングでは、劇的な変化は見られない。驚異的な伸びを見せたのは、一昨シーズンから昨シーズンにかけて。上昇率は87%を超えた。
「消費行動を考えたとき、来てくださったお客様の期待を一度でも裏切ると、次に来ていただくのは非常に難しくなります。だから、初めのうちは集客にはあえて手をつけず、お金を集めることに専念していました。ただ、集客に力を入れる時期がきたときには、お客様の首根っこをつかむくらいの勢いで、来ていただこうと(笑)。そこにようやく取り組めるようになったのが、昨シーズンからなのです」
昨シーズンの開幕前にはチケットセールスを専門に扱うスタッフも招き入れた。選挙に力を入れる政治家の元も訪れた。政治の力を利用したかったのではない。彼らの選挙活動における票集めの手法や工夫が、集客に応用できると考えたからだ。
集客に本腰をいれてから2年目となる今季も、その伸びはとどまるところを知らない。シーズン途中に動員目標を上方修正した上で、合計で13万5千人、1試合平均4500人を目指したが、それもホーム最終戦で達成した。最終戦で記録した7327人という1試合あたりの最多動員数も含め、1試合平均の観客動員数も2位以下に1000人以上の差をつけるなど、断トツでリーグナンバーワンの数字だ。
売上高も、観客動員数も、トップを走る。今では、リーグの他のクラブからも問い合わせが来るようになった。「島田塾」と呼ばれる、各クラブの社長を集めての勉強会も始まった。
Bリーグは1部リーグであるB1から3部のB3まであるのだが、B2のチームを集めて、第1回「島田塾」を開催。先日はB1の社長とともに第2回が開かれ、B3のチームを対象にした第3回の開催も予定されている。他のクラブの社長が驚くのは、島田が手の内を惜しげもなく明かすことだ。聞かれれば、何でも答える。
でも、なぜだろうか。スポーツの世界において、他のチームはライバルではないのだろうか。
社員がボイコットした過去
そこには確固たる理由がある。
第一に、スポーツの世界では一人勝ちを続けたところで盛り上がりは期待できない。モノを売るメーカーとは違うからだ。
「競争相手に対して優位性を高めるべきだという意見はあるかもしれませんし、間違っていないかもしれません。ただ、それは局地的なものです。大局的な視野で考えれば、この世界は低いところにアジャストしてしまう。だからこそ、全体の底上げをすることが絶対条件だというのが私の哲学です」
ただ、それだけではない。
島田のキャリアとも関係する理由がある。今でこそ、成功者としてもてはやされる島田だが、セミリタイアの目標にしていた40歳まで5年を切ったころ、社員たちが仕事をボイコットする事態に直面していた。
「私があまりに強烈すぎたのかもしれません」
島田も、当時を振り返る。目標を掲げて達成することで、会社の価値を高め、会社を高い金額で売ることがゴールであるかのように社員が感じるようになっていた。そんな事実に気がついた島田は社員に頭を下げ、こう伝えた。
「会社を少しでも高く売り、その金で世界中を旅して暮らすことを私は目標にしてしまっていたのかもしれない。それでは、『社長の財産のために頑張っているのかよ』と思ってしまうよね。私が悪かった。会社は、みんなの幸せのためにある。考えを改めるね」
利益よりも、幸せを。青年実業家にとって、大きな転換点だった。
不思議なのは、そこから会社の業績が一気に伸びていったことだ。幸せを追求したら、新たな幸せをともなって、返って来た。
そして、島田が39歳のときに「スタッフの幸せを一番に考えてくれそうな会社」に自社の株を売ることが出来た。
そうやって第一の人生を締めくくったとき、誓ったことがある。
これからは、世のため、人のためになることをしよう。
「バスケで日本を豊かにするとか、ものすごく崇高なスローガンを掲げているわけではありませんよ。ただ、バスケットボール界全体が発展していけば、選手にも、クラブにも還元される。そこにかかわる人たちの幸せな『様』を、私は見たいんです。私のリーダーシップ論を語らせていただくならば、かかわる人を幸せにすることこそが、リーダーの使命だと思っています」
そんな生き様をつらぬく島田には、時代の風も味方しているのかもしれない。
今シーズンから就任した大野篤史ヘッドコーチのもと、ジェッツは飛躍的な成長をとげている。Bリーグが始まってから最初のタイトルである天皇杯を制したのは、優勝候補ではなかった千葉ジェッツだ。その直後のBリーグのオールスターゲームでは、ジェッツの司令塔である富樫勇樹がMVPに選ばれた。
そんな富樫とのなれそめも、運命を感じさせるものだ。
富樫は中学卒業後にアメリカへわたり、田臥勇太についで2番目にNBAのチームに登録されたほどの選手だ。日本のどのチームでも欲しいと考える。
2016年の夏の終わりに日本へ戻ってきた彼が選んだのは、ジェッツだった。どうして富樫を呼ぶことが出来たのか。
3年ほど前のこと。ジェッツがNBLに在籍していた時期に、富樫が一時帰国の機会を利用して、ジェッツの試合を観戦する機会があった。もっとも、彼のお目当ては、対戦相手のトヨタ自動車アルバルク東京(*名称は当時のもの)に所属し、プライベードでも親交のある田中大貴だった。
会場に富樫がいる。面識はない。でも、島田は新潟県の村上市の出身で、富樫はその隣の新発田市の出身だ。縁は、あった。
「同じ新潟出身の島田慎二と申します。海外での挑戦、応援していますね」
同じバスケットボール界に生きる同士として、そんな言葉とともに島田が差し出した名刺は、富樫の財布にしまわれた。
そこから先に、優れた脚本家でも描けないような続きがある。
富樫がその財布を電車のなかで落としてしまったのだ。それを拾ったのが、偶然にも富樫のファンだった。持ち主のもとへ財布をとどけなくてはいけないと考えたファンは、それが富樫の財布であることに驚愕する。ただ、富樫の連絡先はわからない。
財布の中には、数枚の名刺が入っていた。ひときわ目立っていたのが、千葉ジェッツのチームカラーをあしらった、真っ赤な名刺だった。連絡を受けた島田は、伝手をたどって富樫の連絡先を聞きつけ、財布は富樫のもとへと届けられた。
2016年9月。イタリアでの挑戦を続けていた富樫は、チームから解雇を言い渡される。一度、日本に帰ってプレーしようと考えた富樫と、そのエージェント。チームのGMも兼務する島田の携帯電話が鳴ったのはそんなタイミングだった。財布が帰ってきたお礼を伝えてきたとき以来の電話だった。
大きな上昇カーブを描くジェッツの中心にいるのが富樫である。
もし、お天道様がいるのなら、少しくらいは自分の生き様を認めてくれていれるのかな。最近の島田は、そんな風に考えることもある。
いま、願っているのは5月13日から始まるチャンピオンシップ(*プレーオフ)を勝ち抜き、Bリーグの初代王者になること。
そして、その祝杯を『彼ら』と一緒にあげられたら――。
シーズン終了後に、千葉ジェッツでは、普段は裏方に徹するクラブのスタッフ全員で旅行へ行くことになっている。2月の沖縄への研修旅行に続く、今シーズン2回目の社員旅行だ。行き先は、海外にしようと島田は考えている。