近藤俊哉

「バスケしかやったことなかった」。46歳、選手兼社長の軌跡

4/30(日) 8:24 配信

静かなシュートだった。膝のバネを十分に使ったフォームから放たれたボールは美しい弧を描き、当たり前のようにリングに吸い込まれていく。相手チームのサポーターからため息が漏れるまでがワンセット。難しい3ポイントシュートもその男にとっては“いつも通りの光景”だ。

左:1998年の世界選手権の様子(写真:アフロスポーツ) 右:2017年、美しいシュートフォームは健在だ(撮影:近藤俊哉)

シュートの主は日本屈指の3ポイントの名手・折茂武彦。日本のプロバスケットボールリーグ「Bリーグ」のレバンガ北海道に所属する。折茂を彩る称号は枚挙にいとまがない。通算試合出場数と通算得点日本人最多記録を持つ。昨年11月28日には日本出身選手で初となる通算9000点を達成。46歳はリーグ最年長だ。

さらに折茂にはもう一つの顔がある。レバンガ北海道の社長だ。「バスケ一筋だった」という折茂はいかにして競技人生と経営を両立させているのか。

「経営なんてわからないことだらけですよ。それにバスケだって楽しくてやっているわけじゃない。色んなアスリートが楽しいからやってるってよく言いますけど、僕にはないです。すごい嫌です。正直」

球団経営者とアスリートという二足のわらじを履き、最年長プレイヤーとしてコートの内でも外でも走り回る。日本のバスケット界の最前線に立ち続けてきた男の軌跡をたどる。(ライター西信好真/Yahoo!ニュース 特集編集部)

撮影:近藤俊哉

3月25日、千葉県船橋市にある船橋アリーナは、レバンガ北海道対千葉ジェッツの試合が行われていた。この日の観客数は、5316人でほぼ満席。多くの千葉ジェッツファンが詰めかけ、ホームチームのジェッツカラーのレッドで埋め尽くされた。折茂が属するレバンガ北海道のファンはごく一部のエリアに陣取っている。

折茂はベンチからのスタートだった。1クォーター途中、名前が呼ばれレバンガ北海道の9番がコートに入ると、ホームの千葉ジェッツファンからも「折茂だ!折茂が来た!」という、興奮した声が聞こえてきた。

この日の出場時間は12分5秒と限られていたが9得点と奮闘。折茂の活躍は3ポイントシュートだけではない。敵ボールになると、誰よりも速く自陣に走りディフェンスに戻る。チームに対する献身的なプレイスタイルも特長の一つだ。今シーズンは全試合に出場し、チーム2位となる487得点を記録している。3ポイントの成功率は45%。3ポイントの試投数100回以上の選手の中では一番の精度を誇っている。(4/25時点)

「最近年取ってくるとね、膝の関節だって痛い。足元のボールも不安でさ」。チームメイトは自分と親子ほど年が離れている。単純な体力の差はある。だからこそ人よりも深く腰を落とし、頻繁に首を振って周りの状況を確かめる。負けん気と経験でカバーしていく。

撮影:近藤俊哉

実業団員からプロのバスケット選手へ

中学校でバスケと出会い、バスケの名門日本大学へ進学、大学4年でインカレを優勝し、MVPにも選ばれた折茂。1993年の大学卒業後はトヨタ自動車の実業団チームを選んだ。折茂は当時の自身を「我の強い選手」だったと苦笑交じりに振り返る。

「結果を出し続けるしかないんですよ。駄目な時は当然あるので、でも、また次の試合が来るわけであって、そこで良くなれば帳消しにできるんですよ。そうやって、自分の結果だけを追い求めていく。我が強かった人間ですね」

折茂は結果にこだわる。トヨタ時代には、審判に暴言を吐き、ボールを投げ付け、ファンを平然と無視することもあった。むき出しの闘志で勝利だけを求める。そんな折茂にとって、実業団でのプレーはストレスを感じさせるものになっていた。

トヨタ時代の折茂(写真:アフロスポーツ)

「実業団だと負けても、特になんとも思わなくなっちゃう。“会社員”なんですよ。僕、負けるのが嫌いだったんで。結局、一人でイライラしちゃって。このまま自分も『負けてもいいや』という環境に飲み込まれることが怖かった」

折茂は2年目にトヨタの社員を一度辞める。バスケに集中できない環境に納得できず、専属プレイヤーにしてくれと交渉をしたのだ。報酬も変えた。実業団であればトヨタ社員と同じ給料がもらえるが、結果と連動させるようにした。

撮影:近藤俊哉

次に、折茂は球団改革に着手する。懇意にしていたトヨタの顧問と、勝つためにするべきことを何度も話し合い、ヘッドコーチ、外国人選手の招聘やクラブハウスの建設など環境整備を行った。時には自ら選手をバーで口説きその場でサインさせることもあった。その甲斐あって、入団から9年目、ついにトヨタはスーパーリーグで初優勝した。その後、折茂在籍時に、日本一を4回達成する。入団時は弱小だったチームが黄金時代を迎えたのだ。最盛期の折茂の年俸は5000万円にまで跳ね上がっていた。「バスケで飯を食える」という環境に憧れ、さらに優秀な選手が集まるようになった。一方、36歳を迎えた折茂はベンチにいる時間も増え、引退を真剣に考えていたという。

撮影:近藤俊哉

「常勝軍団になったんですよね。もう、いいのかなと思っちゃったんですよ。優勝もしたし、そろそろ引退かなって思っていて」

転機になったのは2007年。北海道にプロチーム、レラカムイ北海道が創設されたのだ。

折茂は、14年の選手生活を過ごし、自らが築き上げてきた強豪トヨタから、創設されたばかりのチームへ移籍することを決める。球団名はレラカムイ北海道、初代ヘッドコーチの東野智弥は、トヨタ時代のアシスタントコーチで、かつての同僚だった。

「トヨタ時代は『契約選手』止まりだった。“プロ”ってなんだって思って。すごいプロに憧れを持っていました」

「散々でした。行った瞬間にやばいって思った」。期待を胸に新天地に飛び込んだ折茂だが、“プロ”の実態に度肝を抜かれる。練習場は電気も来ていない廃校の体育館だった。もちろん練習着も何もない。住む場所も自分で探さなければならない。食事代としてチームから渡されるのは1日500円だけ。

レラカムイ北海道での折茂。(写真:アフロスポーツ)

しかし、新たな環境で、折茂の「プロ」に対する考え方は徐々に変化していく。直接地域の人にビラを配り、チケットやグッズを売り、イベントをする。その中で、プロ選手が目の前にいるファンに支えられていることを実感するようになった。

開幕初戦、3000人以上の観客で満席のアリーナを見た驚きを折茂は鮮明に覚えている。トヨタ時代は強豪チームにもかかわらず、スタンドには空席が目立っていた。この時の感動は、今も北海道でプレイする折茂の原動力となっている。

「トヨタ時代、4回も日本一になってるのに、町を歩いてても誰にも声かけられたことないですよ。テレビに取り上げられたことなんて10秒ぐらい。でも北海道は違った。ニュースでバンバン出る。日本ハムファイターズ、コンサドーレ札幌と同じように扱ってくれる。新聞にはデカデカと出る。おじちゃん、おばちゃんに声かけられて、『折茂くん大変だけど、頑張ってね、ほんと北海道来てくれてありがとうね』ってずっと言われるわけですよ。もう自分のためじゃなく、こうやって応援してくれる、この人たちのために頑張らないといけないって、必然的になってきますよね」

我の強いアスリートだった折茂が、自分以外の誰かのためにバスケットをプレイし始める。新しいステージで折茂は、名実ともにプロ選手へと変わろうとしていた。

撮影:近藤俊哉

球団消滅危機、その時、折茂は

しかし、2011年に事態が急変する。レラカムイ北海道の運営会社の経営が悪化し、リーグから除名処分となったのだ。折茂自身の年俸は最盛期の3分の1にまで下がっていた。新たな運営団体が見つからなければ、チームは消滅する。さらに東日本大震災の発生が状況を難しくさせた。

「日本中が自粛のムード。そりゃ誰も潰れかけたバスケチームのスポンサーにはならないですよね」。球団、リーグを交え、幾度も会議が行われたが出口は見えないままだった。「このまま、悪い前例を作ってしまうと再び北海道にプロバスケットボールチームが生まれることはないかもしれない」。チームを応援し支えてくれたファンの姿が折茂の頭をよぎった。

「バスケをメジャーにするために色々考えた時に、北海道では、僕らを野球やサッカーに負けないぐらいに応援してくれる。だから、この北海道から北海道の人たちと一緒に何か発信していったほうがいいなと。この地域からバスケがなくなることは、日本バスケット界の今後のためにもかなり痛いなって、思いましたね」

「じゃあ、自分がやります」。気がつけば、折茂は自ら手を挙げていた。新チーム「レバンガ北海道」の選手兼オーナーとして、球団の立て直しに取り組むことになった。

そこから、地獄のような日々を過ごすことになる。「本当にバスケしかやったことなかったんで」と言う通り、会社経営どころか名刺の渡し方すらわからない。球団の運営資金を集めるため、北海道中を駆け巡り、頭を下げ営業に回ったが、スポンサーは中々見つからない。プレッシャーで夜は眠れなくなり、体重は8kgも減っていた。記憶がなくなるほど辛い時期だったという。

「当初4000万円ぐらいしか集まらなかったんじゃないですかね。リーグは、興行収入をあわせると、それぐらいでなんとか行けるんじゃないかって言ってたんですけど、甘かった。死ぬほどかかります。4000万なんて紙くずのように一瞬でなくなりましたから」

一度チームが無くなったことで、アリーナに足を運ぶ観客も激減していた。期待していたチケット収入も見込めず、あっという間に運営資金は底をついた。球団運営で一番資金がかかるのは、選手の人件費だ。カネが無くなるということは、つまり選手に給料が支払えないということだ。球団の代表であると同時に現役選手でもある折茂は、「カネが払えないかもしれない」という危機感を抱えながらコートの上で一緒にプレイしていた。

何よりもプロとして自らの報酬にこだわってきた折茂は、自分の貯金を切り崩し、選手に給料を払い始める。その額、月に900万円。無論、長続きするはずもない。1年で 愛車も失い、貯金も底をついた。

撮影:近藤俊哉

折茂は、運営法人を「一般社団法人」から、より融資の受けやすい「株式会社」へと切り替え再起することを決意した。

「株式会社になれば、自分が意思決定できる。失敗しても自分で全ての責任が負える。納得ができる形にしたかった」

「辞める理由がないんだよな」折茂の宣言と新たな難関

2シーズンの累積赤字はすでに約8200万円に達していた。再スタートどころか、球団消滅の危機であった。

折茂はメインスポンサーの社長を訪ね、直談判する。「これが最後です。最後のチャンスだと思っているので、協力してもらえませんか」と折茂は頭を下げた。

経営難だけでなく、当時のレバンガは、日本バスケットボールリーグでも成績は最下位。楽観できる要素は何一つなかった、良い返事がもらえるとは、とても思えない。後がないのがわかっているだけに緊張のあまり体が震えたという。

それでも、折茂は球団の夢と、北海道に対する思い、バスケットに対する思いを熱く語った。しばらくして社長は答えた。

「わかりました、手伝いましょう」

さらなる経営支援を受けられることになった。球団の存続が決まった瞬間だった。

異例の選手兼経営者という立場で、綱渡りの6年が過ぎた。今年度はようやく球団の黒字が見えてきているという。

2016年9月22日には、「Bリーグ」が開幕した。2リーグが並立していた国内トップリーグは統一され、新たなプロバスケットリーグとしてスタートした。華やかに演出された開幕戦は、地上波でも放送され、2017年4月16日時点の総観客動員数は、1,296,473人と、着実に動員を積み上げている。

撮影:近藤俊哉

折茂に今のBリーグはどう映るのだろう。

「まだまだ課題がたくさんあります。誰かがそれを厳しく言わないといけない。そういう人って、反感を買うじゃないですか(笑)。でも、僕そういうの全然かまわないんで。嘘もつかないし正直にいろんなことを発信していこうかなと。それが年寄りの僕の役目かなって」と笑う。

日本のバスケット界は折茂を、まだまだ必要としている。しかし、50代に差し掛かろうとするアスリートが、年の離れた若い選手と同じ土俵で勝負をするというのは、並大抵のことではない。さらに前シーズンでは右足亀裂骨折の長期欠場を余儀なくされた。

「年をとると何が大変かって、準備が大変になるんですよ。試合に出るための体を作るのが。自分の頭と体のギャップが凄いんです。俺はこのタイミングで入って行けてた。あれ?って、遅れてくるわけです」

思い切ってぶつけてみた。「いつまで現役を続けるのか」――。

折茂は少し考えてから静かに答える。

「辞める理由がないんだよな」

なんとも折茂らしい言葉で現役続行を宣言する。

だが、ことはそう簡単ではない。「経営者」折茂にも難題がのしかかる。4月5日、「レバンガ北海道」に、厳しいニュースが飛び込んできた。Bリーグ理事会から、1部リーグ残留の条件として、2018年3月までに2億4000万円の債務超過を解消することを義務とされたのだ。残された時間は少ない。

数多くの壁に挑み、越えてきた折茂。新たなる難題をどう乗り越えてみせるのか。

撮影:近藤俊哉




折茂武彦(おりも・たけひこ)
1970年5月14日生まれ、190cm・77kg。シューティングガード。埼玉県出身。レバンガ北海道所属。埼玉栄高校から日本大学へと進学し、1993年にトヨタ自動車に入社。2007年、新設されたレラカムイ北海道に移籍。その後、運営会社の撤退などにより新チーム「レバンガ北海道」を自ら創設。国内プロ団体球技で異例の「選手兼オーナー」に就任。

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