昨年10月、歌舞伎町にときならぬ行列が現れた。取り壊しが決まったビルでの展覧会。「これがなければ歌舞伎町なんて来ようと思わなかった」という若者がネオンの下で黙々と入場を待っている。外国人観光客の増加、東宝「ゴジラ」ビルの竣工など、賑わいが戻りつつある歌舞伎町。その中で「地元の人間が誇りを持てる街に」と考える人たちが開催を後押しした。「流行ではなく文化が欲しい」。展覧会に関わった人たちが見つめる、街のこれまでとこれから−−。(ライター・川口有紀/Yahoo!ニュース編集部)
「観光地化」する歌舞伎町
JR新宿駅東口を出てスタジオアルタの脇を抜け、靖国通りへ出る。道路の対岸にはドン・キホーテやカラオケ、居酒屋の看板がひしめきあう。視線の先にそびえ立つ高層ビルからは巨大ゴジラが顔を出す。
歌舞伎町の入り口は今、外国人観光客による「撮影スポット」になっている。立ち止まり写真を撮ろうとする観光客と、それをくぐり抜け目的地に向かう人々が交差する。
「ゴジラビル」は、新宿コマ劇場の跡地に建った「新宿東宝ビル」だ。2015年に竣工。最新鋭のシネコン「TOHOシネマズ新宿」と、970室を有するシティホテル「ホテルグレイスリー」が入っている。
廃ビルの前から延びた行列
2016年10月31日、ハロウィンの夜。東宝ビルの横に長い行列ができていた。「何の行列? なんかのイベント?」。居酒屋から出てきた仮装した若者グループが不思議そうに話しながら横を通り過ぎる。行列の先は、「歌舞伎町商店街振興組合ビル」という、5階建ての古ぼけたビル。所有者は「歌舞伎町商店街振興組合」だ。
1964年5月に竣工したこのビルは、老朽化のため建て替えが決まっていた。10月上旬にはすべてのテナントの移転を終えた。5階に入っていた振興組合事務所も引っ越しが済み、取り壊しを待つばかりだった。
その廃ビルに、なぜ行列ができていたのか。
人々の目的は、現代アート集団Chim↑Pomがこのビルで開催していた展覧会、「『また明日も観てくれるかな?』〜So see you again tomorrow, too?〜」だった。この日は最終日で、駆けこみの来場者が長い列を作っていたのだ。終了時間は22時。しかし21時を超えても、行列は短くなる気配がない。
通りに面した場所には「指名手配ポスター」を摸した「顔出しパネル」が展示されている。顔出しパネルから顔を出すと、交差点を挟んで斜向かいに本物の歌舞伎町交番が見える。「指名手配ポスターの顔出しパネル」は、「危険」と言われる歌舞伎町を「観光地」へと変える装置として機能していた。
現代アーティストが「歌舞伎町」を選んだ理由
「『このビルで展覧会できるよ』と話を持ちかけられて、おもしろそうだとは思ったけど、廃墟を使った展覧会はたいして珍しくないし、既視感があるなと思ったんですよ」
こう語るのは、Chim↑Pomのリーダー・卯城竜太(39)である。2005年に6人のメンバーで結成されたChim↑Pomは、現代社会が抱える問題に反応し、挑発する作品で知られる。たとえば、福島第一原発事故のあとの2011年5月、井の頭線渋谷駅の壁画「明日の神話」(岡本太郎作)に、白煙をあげる原子炉建屋の絵を付け足すストリートアートを行ったことでも有名だ(のちに撤去)。
最終的に展示を決めた大きな理由は、この場所への興味だった。1949年に作られた歌舞伎町商店街振興組合(当時は歌舞伎町振興組合)が、「戦後復興の歴史」を背負っていた存在であること。またビルの目の前には交番があり、「危険」と言われる歌舞伎町で、「最も安全を担保されている場所」であるという、ある意味「矛盾した」場所であること。
歌舞伎町の展覧会も型破りだった。観客は入場する際に、事故の免責同意書にサインしなければならない。エレベーターで4階に上がると納得する。フロアの真ん中が4階分、ぶち抜かれているのだ。ぽっかりと空いた穴から、こわごわ下を覗き込む。
穴の底には、かつてその空間に存在したであろう物質が積み上げられている。床をなしていたコンクリートに、各階で使用されていたソファやテーブルや雑多なものが挟まれた、名づけて「ビルバーガー」。ファストフード的大量生産大量消費と、スクラップ・アンド・ビルドが繰り返される都市の姿が重なる。
他にも、歌舞伎町で働くデリヘル嬢「みらいちゃん」を青写真の感光剤で焼き付けた作品など、歌舞伎町そのものを題材にし、挑発するような作品が展示されていた。
卯城に組合ビルでの展示を持ちかけたのは、ホストクラブ「Smappa! Group」会長の手塚マキ(39)だ。学生時代に歌舞伎町のホストクラブで働き始め、1年でナンバーワンになった。2003年に独立し、現在は歌舞伎町を中心に、新宿でホストクラブやバーを経営する。ホストによるゴミ拾いボランティア「夜鳥の界」の発起人でもある。
手塚は、振興組合ビルの取り壊しが決まったとき、「空いているスペースで、街のためになることを何かやってよ」と組合に依頼され、インターネット配信スタジオをビルの1階で約1年間運営した。「街のために」という思いが、取り壊し直前の廃ビルでの現代アート展という発想につながった。展覧会は来場者を増やし、16日間で入場者数1万人を超えた。
危険がゼロとは言えない展示を、ビルの持ち主である歌舞伎町商店街振興組合はすんなりと許したのだろうか。組合の副理事長を務める杉山元茂(63)は歌舞伎町で60年続く老舗「とんかつ すずや」社長でもある。杉山は「実現させてあげたいと思った」と言う。なぜなら、「いろんなものがのみ込める多様性が歌舞伎町らしさ」(杉山)だからだ。
暗黒期を経て人通りが戻った今
歌舞伎町商店街振興組合の前身「歌舞伎町振興組合」の成立は1949年。戦後最も早く立ち上げられた商店街組合と言われている。戦後の日本では各地で復興事業が推進されたが、歌舞伎町は民間主導で進められた。振興組合史にこう書かれている。「東京では、地元の民間主導によって計画が進められ、行政が追随する形で支援にまわった特異な例がいくつかある。『興行街実現』という将来ビジョンを掲げ、その実現を目指した『歌舞伎町』もその一つ」
現在の歌舞伎町商店街振興組合は、12の町会と約500の組合員からなる。杉山が経営する「すずや」のように何十年も店を営んでいる老舗や、ビルオーナーのほか、手塚のようにホストクラブやバーを手がける経営者たちも組合に加入している。
外国人経営者による飲食店も多い。現在では新宿区民の約11%を外国人が占める。
歌舞伎町一番街でアジアンダイニングバー「kokomo」を経営するカパリ・ザガーはネパール出身だ。10年前に歌舞伎町で商売を始めた。「他の土地では、外国人に対する風当たりを感じたこともあった。でも歌舞伎町ではそういったことを感じたことがない。今では自分のことを外国人だと思ってないですから」。
同じく一番街で中華料理店「湖南菜館」をプロデュースする李小牧は中国・湖南省出身。「歌舞伎町の住人」になって29年。長年、街を訪れる外国人観光客を見てきた。
「今、中国人の団体観光客が昼間に多いのは『歌舞伎町は危険』というイメージが中国では根強いから。夜は怖いけれど昼間なら大丈夫、というわけです」
「危険」のイメージが最も深刻になったのは「2001年の歌舞伎町ビル火災だった」と前出の杉山は言う。9月1日午前1時頃に雑居ビルから出火、入居店の客や従業員44人が犠牲になった。
「人が多い場所はいろんな事故が起こり得る。でもあの火災で実態以上に『歌舞伎町=危険』というイメージが独り歩きしたような気がします」(杉山)
石原慎太郎都政2期目の2004年には「歌舞伎町浄化作戦」と称される大規模な違法風俗店摘発、監視カメラの設置等が行われ、遊興を目当てにした客層を遠ざけた。2008年には新宿コマ劇場が閉館、跡地の計画は長らく明らかにならず、「人を呼び込む施設」がなくなったことは影響したと杉山はいう。経営が厳しくなった違法風俗店の業者たちは、取り締まりの目をかいくぐることで「地下化」していき、「ぼったくり」が横行するようになった。
「火災から10年くらいは本当に人通りが減って、昼間でも街が暗い感じでしたよ」(杉山)
歌舞伎町が賑わいを取り戻すきっかけとなったのが外国人観光客の増加だった。2012年、円安やビザ緩和の方針により、訪日外客数が飛躍的に伸び始めた。旅行サイト・トリップアドバイザーが発表した「外国人に人気の観光スポット」ランキングでは、2014年版は歌舞伎町の「ロボットレストラン」が16位に入った。彼らが目的とするのは、ネオンや看板がひしめく雑多でエネルギッシュな雰囲気。歌舞伎町の「多様性」が、思わぬ形で観光客を呼び込んだ。
「観光地」としての歌舞伎町の地位が上がったことで、歌舞伎町に「滞在」することの価値も上がった。ホテル予約サイトのエクスペディアが2016年1月に配信したリリースによると、2015年に同サイトを通じて都内のホテルを予約した外国人のうち、新宿を選んだ人は30%。人気ホテルランキング1位は新宿東宝ビルに入っているホテルグレイスリーだった。しかも、トップテンの半数を新宿が占める。新宿近隣での新たなホテルの開業も相次いでいる。
新宿区や組合も街の健全化に取り組んだ。新宿区は2013年に路上での客引き行為を禁止する条例を制定。組合も、区や警察と連携してパトロールを強化したり、注意喚起のチラシやティッシュ配布などを行った。歌舞伎町のネットカフェで長年勤務する30代の男性は、「4〜5年前まではぼったくりで客引きとお客が揉める光景は日常茶飯事でした。今は目にすることもなくなりましたし、客引きの数自体も減りましたね」と話す。
2009〜2013年まで下降していた公示地価も2014年から上昇に転じ、2016年は前年比6.21%増と順調な伸びを見せている。昼間には東宝ビルを目当てにファミリー層が訪れるようになった。
「歌舞伎町で、ベビーカーを押したお母さんがたの姿が見られるようになるとは、何年か前までは考えられませんでしたねえ」と杉山は言う。
「外国人観光客」と「家族連れ」という、かつての歌舞伎町で見られなかった客層によって、歌舞伎町は賑わいを取り戻したようにみえる。
しかし、「観光地」化はいい面ばかりではない。「写真は撮るけれどお金は落とさない」と店舗経営者は口を揃えてぼやく。かといって、そもそも「歌舞伎町は危険」という先入観を持っている彼らを取り込む術がよくわからない。そんな現状に対し、李はこう語る。
「だったら安全に遊べる場所をきちんと作ればいい。今そういった歌舞伎町の良さをわかっているのは、実は外国人観光客なんだけど、まだ店側の対応が追いついていないのが現状」
「観光地化」の中で生き残りを模索する
ホストクラブの経営者として、組合の一員として、歌舞伎町の「外」と接することも多い手塚は、「最近、外からの印象が変わってきたのを感じてるんですよ」と言う。「Chim↑Pomみたいな芸術家も『歌舞伎町はおもしろい』と言ってくれる。もしかしたら、歌舞伎町が一番イケてるんじゃないか……そんなことを5年前くらいから感じ始めた」。ただ、「何かが足りない」という感覚を同時に抱いた。
「ファッション」(一過性の流行)ではダメだ。もっと力になるものが欲しい。
「歌舞伎町の歴史を受け入れて、街の未来を作っていきたいと思えるような地元意識。ここで生まれ育っていなくても『新宿が地元だ』『歌舞伎町イケてる』といえる人が増えたらいいな、と思うようになった。その力が、アートにはあると思ったんです」(手塚)
前述のChim↑Pomの展示に訪れた人たちの中には「この展示がなければ歌舞伎町なんて来ようと思わなかった」という感想が聞かれた。前出の卯城はこう言う。
「いわゆる風俗街や歓楽街を英語で説明するとき、『red-light district(赤い灯の町)』っていうと伝わりやすい。たとえばかつてのニューヨークのタイムズスクエアはそうだったけど、今は完全なる外国人向けのエンターテイメントシティになり、もはやニューヨーカーは行かない場所になった。オリンピックに向けて歌舞伎町もそうなるのかもしれない。歓楽街としての魅力も残るだろうけど、たぶん今その狭間にいるんだと思う」
雑多なナイトスポットがひしめく歓楽街としての個性を残しつつ「安心・安全」な観光地へ――。その変化を受け入れつつも、「街を守り、作っていく」と決意した人たちがいる。廃ビルでの展示が映し出したのは、その志だったのかもしれない。
廃ビルは2017年2月現在、解体工事が進んでいる。2018年に「新・歌舞伎町商店街振興組合ビル」が竣工する予定だ。
川口有紀(かわぐち・ゆうき)
1978年、広島県生まれ。ライター、編集者。演劇雑誌の編集部員を経てフリーに。主に演劇、芸能、サブカルチャーの分野で取材・執筆活動を行う。
[写真]
撮影:田川基成
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝