12月8日に行われたヨーロッパリーグのザルツブルク戦で、シャルケの内田篤人(28)が、2015年3月のレアル・マドリード戦以来、およそ1年9か月ぶりの復帰を果たした。試合直後から、日本代表でプレーする選手たちはもちろん、世界王者であるドイツ代表の選手たちまでもが、一様に内田の復帰を祝福した。
多くの仲間から声が挙がったのは「交通事故クラスの怪我」とも評される大怪我からの復帰がいかに難しいのかを、同じサッカー選手である彼らは、知っているからだ。
同時に、内田がドイツを代表するシャルケというクラブで長くプレーし、世界最高峰のチャンピオンズリーグの出場試合数が日本人としては最多という、日本を代表する選手だからでもある。
復帰するまでに内田が、何に苦しんで来たのか。実際にピッチに立った今はどんなことを考えているのか。そして、ザルツブルクへの遠征に密着したなかで、内田が吐露した想いとは――。(スポーツライター ミムラユウスケ/Yahoo!ニュース編集部)
スタジアム内のデジタル時刻の表示が80分55秒になった。試合時間が残り10分を切ったことに気がついたヴァインツィール監督が、コーチに合図を送る。
「ウチダ!」
ウォーミングアップをしていた内田篤人が、ベンチへ急ぐ。履いていた長ズボンをおろし、右ひざのテーピングを隠すように特殊なタイツをはく。羽織っていたウィンドブレーカーは勢いよく脱ぎ捨てた。髪は乱れたが、そんなことは気にしない。
そして、ホルガー・レンマースとハグをした。
「まだ、焦るべきじゃないよ」
「じっくり、頑張っていこう」
このフィジオセラピスト(身体のケアを行う理学療法士)は、いつも声をかけてくれた、かけがえのない存在だ。
コーチに戦術の確認をして、監督とタッチをかわす。あとはプレーが切れるのを待つだけだ。
639日ぶりにフィールドに戻ってきた
「ウーシーダ、オーオーオ」
『ウチダ』ではなく、『ウシダ』と発音してしまうシャルケファンの声援がスタジアムに響いていく。そして、自分と交代でベンチに下がるリーターが近づいてきた。
ピッチに深々とお辞儀をして、右足からタッチラインをまたぐ。プロサッカー選手になってからずっと変わらない内田の流儀だ。82分56秒からアディショナルタイムを含めた93分54秒まで。復帰戦で与えられた11分足らずの時間はあっという間に過ぎて行った。
「『とりあえずは怪我なく、試合を終えたい』というのではなくて、『勝ちに行くんだ』と思えたのは良いことだと思います」
内田は試合後にそう振り返った。この試合で起用されたのは「リハビリを頑張った、ご褒美」だと考えている。
12月8日、ザルツブルクで行われたヨーロッパリーグのグループステージ最終節では0-2でシャルケが敗れた。
そんな状況でも、チームメイトは内田の復帰の意義を説いた。
シャルケの公式戦を74試合も欠場し、シャルケのユニフォームを着て再びプレーするまでに639日間も要するきっかけとなったのは、2014年2月のハノーファー戦で負った怪我だった。
そこから、14年6月のブラジルW杯へ向けてドイツでリハビリに取り組んでいた時期に、一緒に汗を流していた選手がいる。右膝の十字靭帯断裂という大けがからの復帰を目指していた、元ドイツ代表のアオゴだ。彼は、ザルツブルク戦の後にこう語った。
「僕たちはザルツブルクとの試合には負けてしまった。それでも、今日の偉大なる勝者は1人の『シャルカー』。『ウシー』だよ。僕たちは、アイツが復帰してくれたことが嬉しいんだ」
試合の翌日、午前10時を少し過ぎたころだった。ザルツブルクにあるW・Aモーツァルト空港にシャルケの一行が到着した。ドイツへ戻る飛行機が出発するまでには、少し時間があった。選手たちが保安検査場を抜けると、ドイツ人のファンが集まってくる。内田も次々と写真撮影をせがまれた。
シャルケは、チャンピオンズリーグとヨーロッパリーグ(*かつてのUEFAカップやチャンピオンズカップも含む)の出場試合数を足したヨーロッパのカップ戦の出場数のランキングを発表している。ザルツブルク戦で出場試合数を一つ増やした内田は、かつて右サイドのMFとサイドバックとしてコンビを組んでいたファルファンと並び、歴代4位タイにつけた。1904年から続くクラブ史のなかで、内田がひそかに誇りにしている数字である。そんな選手が長い怪我から復帰したのだから、ファンが写真を一緒に撮って欲しいとねだってくるのも当然なことだ。
ファンからの求めに応じた内田は、ようやく、カフェの椅子に腰を下ろした。
「やっぱり、長かったからね……。こうやって、普通に話しているけど、けっこうキツかったし」
そう言った内田は、これまでの長い道のりを振り返っていった。
復帰は絶望的。「地面についていた」だけの右足
そもそも、現在につながるきっかけは、2014年2月9日のハノーファー戦で右足の太ももと膝の腱を怪我したことだった。直後に控えるW杯を見据えて、リハビリを続けて、大会には間にあった。そして、W杯では日本代表のなかでも最高のパフォーマンスを見せたと評された。
だが、W杯の2試合目や3試合目では「右足は地面についているだけの状態」と本人は語っている。身体の痛みを精神力で克服していた状況だった。
W杯後に少し戦列を離れていた時期もあったが、所属するシャルケが不振にあえいでいたこともあり、14年の9月には復帰。試合に出続けた。もちろん、痛みに耐えながら。
しかし、階段を上るだけで激痛が走るほどで、練習でもチームとは別メニューでの調整を促される状態だった。
そして、15年の4月、クラブから、とあるドクターの元を訪れるように言われた。膝の治療の権威であるミュラー・ヴォルファートだ。100mの世界記録保持者であるウサイン・ボルトをはじめ多くのアスリートを顧客に持ち、ワールドチャンピオンであるドイツ代表の担当医でもある。バイエルン・ミュンヘンの主治医も長らく務めた。
そんな名医には、厳しい口調でこう言われた。
「手術したら、復帰するのは無理だ。手術しようだなんて、考えるなよ」
それでも、色々な医者の元をまわり、様々な可能性を考えた上で、手術に踏み切ったのが2015年の6月のことだ。その過程で、『サッカーのグラウンドで起こったとは想像しがたい、交通事故にあったときに負うような大怪我だ』と言われたこともあった。同時に、同じ怪我で苦しんでいるアスリートが多いこともわかった。
皮肉だったのは、内田が痛みに耐えながらもプレーを続けたために、怪我が悪化してしまったことだ。後悔はない。覚悟もしていた。男なら痛いなどと言うべきではない。そんな美学を貫いた。
「オレの怪我は、普通のものではないから。しかも、『膝蓋靭帯』と言われる、人間の身体のなかで最も強い靭帯が骨化(*)することは滅多にない。それでも手術をしたわけだけど、なかなか治らない。あの決断が間違っていたんじゃないかなって、すごく迷った時期が一番、きつかった」(*膝蓋靭帯の痛めた箇所が、そこを修復しようとする人間の治癒力のために骨のような状態になる)
日本で手術に踏み切ったのは、15年の6月のこと。だが、ドイツでのリハビリは思うように進まず、16年の2月末から、リハビリの拠点を再び日本に移すことになった。
鹿島での着実な回復も束の間…
16年の5月のころだった、と内田は記憶している。鹿島アントラーズ時代のチームメイトである遠藤康から声をかけられた。
「うちの塙さん、すごく良いから一度だけでも、診てもらったら?」
信頼するかつての仲間の意見に耳をかたむけ、鹿島でフィジオセラピストを務める塙敬裕氏のもとを訪ねた。
「塙さんは、オレの感覚と、ことごとく同じようなことを言っていたから。そこで、『あぁ、探していたのはこの人だな』と思ったんだよね」
幸運だったのは、鹿島でリハビリをしたいという内田の意向を、シャルケはもちろん、アントラーズ側が受け入れてくれたことだ。内田がかつてアントラーズに所属していた時に良好な関係を築いてきたし、「ファミリーを大切にする」というクラブの方針もあった。
6月から鹿島でのリハビリが始まると、1カ月もしないうちに、ボールを蹴るどころか、6人対6人で行われるミニゲームにも参加できるまでになった。6月の終わりの時点で実際の試合に出られるほどではなかったものの、このままリハビリを続けていれば、そうなるのも時間の問題のように思えるほどの回復ぶりだった。
ただ、7月には、シャルケからの要請もあり、ドイツへ戻ることになった。鹿島にいたときと調整方法の違いから、復帰への道のりが、一度は暗雲が立ち込めた。
それでも、ハイデル新GMが、「ウチダが回復するのに最適な方法があるなら」とシャルケの提携するリハビリ施設に、ドイツで治療院を営む吉崎正嗣が帯同することを認めてくれた。塙氏と吉崎氏との間で連絡をとってもらいながら、リハビリを行っていった。吉崎氏には、今でも、毎日のようにマッサージをしてもらっている。
遠藤の一言や塙氏の存在がなかったから、あるいは、プライベートの時間を削ってまでマッサージをつきあってくれた吉崎氏がいなかったら、復帰までにもっと時間を要していただろう。
「ここまで、無駄な時間がすごく多かったのかもしれない。それはわからないよ。このタイミングで復帰できたのは、最短だったと思いたいけど……」
例えば、サッカー界では、膝の十字靭帯にかかわる怪我が非常に多い。先に挙げた元ドイツ代表のアオゴの怪我もそうだった。決して軽いものではないが、症例が豊富なため、復帰へのプロセスと治療法は、確立されている。
「散々泣いてきたから」。細くなる右足を前に…
しかし、膝蓋靭帯の怪我はそうではない。そもそも、内田の場合は、それが骨化してしまうという、特に、珍しいケースだった。十字靭帯はサッカーのなかで負担がかかったり、切れやすい箇所ではある。それに対して、膝蓋靭帯は人間の身体のなかでも最も丈夫な箇所の一つ。そこを痛めたからこそ、「交通事故レベル」と言われたこともあったのだ。
「『この治療法は意外と効果があるな』とか、『これはあまり効き目がない』とか、試行錯誤の繰り返しだったから。塙さんにも、『これは実験みたいなものかな』と言って、始まったわけだから。でも、あの人がいなかったら……どうなっていたか、わからなかった」
内田はこうも話していた。
「1年9か月もリハビリやれる? しかも、治るのかどうか、わからないなかで。こうすれば治ると、わかっていたら、1年でも、2年でも、やれるよ!でも、リハビリをやっても、やっても、どんどん細くなっていく右足を見ると、『これ、治るのか?』って思ってしまうでしょ」
日本の関係者やファンだけではなく、ドイツ人の関係者、メディア、ファンまでもが心を動かされた復活劇のなかで、内田が涙を流さなかった理由もそこにあったのかもしれない。
涙はもう、枯れていた。
「オレは、もう散々泣いてきたから。夜にご飯を食べていて、涙が出てくるなんてこと、普通はないでしょ?」
ポーカーフェイス。ハートが強い。動じない。
そう評される内田でも、袖を濡らさずにはいれなかった。
「夜に、膝のアイシングをしながら涙が流れてきたり、リハビリ中にもそういうことがあった。練習場に行く車のなかでもよく、泣いてたよ。『あぁ、治らねぇ』って。それくらいはあるでしょう、1年9か月も休んでいれば。まぁ、泣いて治るくらいなら、いくらでも泣くよ。でも、そういうものではないから」
今までのサッカー人生を取り返す
「むしろ、ここからのほうが大変でしょう。これからは練習ではなく、どんな形でもいいから、試合をこなしていかないといけないし、監督の信頼も勝ち取らないといけない。時間はかかる」
大怪我から復帰するという壮大なテーマの、プロローグは終わった。本編はこれから始まる。
「サッカー選手は、現役でいられる期間がすごく短い。1年や2年を無駄にすると、普通の社会人で考えれば10年くらい何もしていないとの同じだから」
そう話していた内田だからこそ、ザルツブルク戦のあとに、力を込めたのだ。
「自分のサッカー人生を取り戻せるよう、一生懸命やります」
ただ、内田にとっての個人的な戦いは、誰かに、何かを与えられるのかもしれない。
あの試合の後、ザルツブルクに所属する南野拓実は、内田にお願いをしてユニフォームを交換してもらった。日本サッカーの将来を担う21歳の青年は、こう話している。
「(内田に)シュートをブロックされたのは悔しいですけど、日本を代表するような選手が復帰したことは、とても嬉しいですし、少しでもマッチアップできて良かったというか……。逆に、僕も刺激をもらいましたね。僕も、『ファンから歓迎されるような選手になっていきたいな』と。(内田が)最初にロングスローを投げたときから、すごい声援があがっていましたから」
ヒトが、後世に残せるモノで、最も価値があるのは何だろうか。
お金だろうか。モノだろうか。
たぶん、違う。
希望だろう。
「この怪我で悩んでいる人はすごく多いからね。サッカー選手だけじゃなくて、他の競技の選手まで。さすがに手術までする人はあまりいないけど(笑)手術しちゃったオレでもこうやって復活できるんだから、『自分なりの治し方さえ見つければ治る怪我だよ』とは言えるかなぁ。1年9か月休んだアスリートでも、一応、ヨーロッパの舞台に立てたということは、これから怪我する人にとって、ちょっとだけイイことかなとは思う」
「ただ、相当きついけどね。メンタル的には、やばいよ……」
感傷に浸りながらも、こう付け加えるのは忘れなかった。
「でも、もう少し時間がかかったとしても、耐えられたかな。まだ、限界ではなかったよ」
そう言い放った内田は、少しだけ笑顔を見せた。
ミムラユウスケ
スポーツライター。2006年7月に活動をはじめ、2009年1月にドイツへ渡る。ドルトムントやフランクフルトに住み、ドイツを中心にヨーロッパで取材をしてきた。2016年9月22日、Bリーグの開幕した日より、拠点を再び日本に移す。現在はサッカーだけでなく、バスケットボールの取材にも頻繁に足を運んでいる。『Number』などに記事を執筆、『Number Web』での連載は2009年7月から続いている。内田篤人との共著に「淡々黙々。」。岡崎慎司の著書「鈍足バンザイ!」の構成も手がけた。