その男は、まるで“見えているかのように”取材現場に現れた。路上の縁石や標識を杖を使って巧みにヒョイヒョイと避けていく。盲目のヨットマン、岩本光弘(49)。2013年6月21日、ニュースキャスターの辛坊治郎氏と共に小型ヨットで太平洋を横断中に遭難し、海上を漂流していたのを海上自衛隊に救助された。当時、大きく取り上げられたこのニュースを聞いて、彼を思い出す人は多いのではないだろうか。
2人の救出に多額の費用がかかったことから、当時「無謀な挑戦だ」「税金のムダ使い」など、数々のバッシングやヘイトスピーチが浴びせられた。あの事故から3年、彼は「事故に感謝している」と話す。
少年時代に光を失い、もがき苦しみながら多くの挑戦を続けてきた。岩本の原動力はどこにあるのか。(Yahoo!ニュース編集部)
岩本が異変に気づいたのは13歳の時だ。
「何してんだ、相手チームを勝たせたいのか!」野球のチームメイトからの野次だった。
普通に取れていたはずのゴロが取れない。
そのうち自転車に乗っていても道をそれて、電柱や標識にぶつかるようになった。歯ブラシに歯磨き粉が上手につけられず、指につけてしまう。
「目が見えなくなり始めている」
岩本が完全に光を失ったのはそれから3年後、16歳の時だった。頭によぎったのは「自殺」の2文字だった。
「俺は一生涯、誰かの世話になって、歯磨き粉すら付けてもらわなきゃ生きていけないのか。人にお世話になって送るような人生なんて“ない”方がいい」
近くの橋へ行き、靴を脱ぎ、欄干に手をつき、体重を乗せた。16歳の少年には重すぎる決断だ。身を乗り出そうとしても上手く体重が乗り切らない。「近くの公園で休憩しよう、それからもう一度死ねばいい」。追い詰められた疲れから公園でウトウトしていると、夢を見た。岩本のことをいつも気にかけてくれていた、亡きおじの夢だった。
「目が見えなくなったのには意味がある。目が見えていても、何のために生きているか分からないような人はたくさんいる」
死ぬ前にやるべきことをやろう。岩本の「挑戦人生」が始まった。
サンディエゴで生み出した「指針術」
だが、何から始めていいかわからない。目が見えないのなら「耳」を使った挑戦だ。アマチュア無線の周波数を合わせると聞こえてくる異国からの英語に岩本の胸は踊った。「英語を勉強したい」。そう思いたち英会話スクールに通い始めた。その後、家族の心配を押し切り、上京、筑波大学理療科教員養成施設(東京都文京区)に入学、22歳の時にサンフランシスコ州立大学へ単身留学した。
留学から帰国後、筑波大学を卒業し「手」を活かした仕事に就こうと25歳で針灸教員に就任する。「鍼灸師としてアメリカで挑戦してみたい」岩本は留学ではなく、39歳の時に開業のためにアメリカ西海岸・サンディエゴへと渡った。
「筑波大学の教員という安定した地位を捨てて、渡米するのは勇気が要りました。でも、飛び出したからこそいまの自分があると思う」
サンディエゴはボディエナジーなどに対する理解が比較的高い土地だったとは言え、日本で培った「鍼」は現地人からすると恐怖だったのだ。そこで針は使わず指のみを使う「指針術」を生み出した。岩本の「指針術」は指でカラダのツボを押すのだが、力を入れる角度を変えることで「指を鍼のように」使うことで指圧とは異なる効果があるのだという。それでも経営を軌道に乗せるのに2年かかった。「昔は1日2件しか依頼がなくて。往診したら赤字になっちゃうくらいで」と言う時期もあるが、今では「指針」の教えを乞うために世界中から弟子が集まってくる。
指針院の経営も軌道に乗ってきた2013年、岩本は人生を大きく変える挑戦をする。ニュースキャスターの辛坊治郎氏と2人で「太平洋横断」に挑む。サンディエゴへ渡った時から、いつかは挑戦してみたいと思っていた「太平洋横断」という夢に辛坊氏をはじめ、多くの人が岩本に協力してくれていた。2013年6月16日、小型ヨット・エオラス号に乗り込み、2人は航海に出た。
だがそれから5日後の21日早朝、船体下部から「ゴーン」と突き上げるような音を三度、岩本が耳にする。「これはなにかおかしい」。そう感づいた岩本は慌てて船体の床板を剥がして手をさしこんだ。海水の感覚があった。叫んだ。「浸水だ!」。
直前にレーダーで障害物は24マイル(約38キロ)の範囲になかったことを確認していたはずだった。だがぶつかった。慌てて海水を掻き出そうとするが間に合わない。水位はどんどん上昇し、数分の間にくるぶしまで水浸しになっていく。
2人が選んだのは船体放棄。救命ボートに移乗し、11時間大海原を漂流した。同日18時過ぎ、海上自衛隊の飛行艇によって救出された。
帰ってきた岩本を待っていたバッシングの嵐
「カメラは何台並んでいますか?」帰国後の記者会見に臨む前に岩本はこのプロジェクトを一緒に進めてきたチームのメンバーに聞いた。ことの重大さは分かっていたが、改めて挑戦に失敗したことの大きさに気付かされた。
案の定岩本を待っていたのはたくさんの批判やバッシングだった。「無謀な挑戦だ」「税金のムダ使い」。「目が見えないくせに……」や「辛坊治郎は夢の実現のために全盲のヨットマンを利用した」などという誹謗中傷もあった。自分さえ太平洋横断なんて夢を見なければよかったのに――。と非難されていることを知り、岩本はそう思ったという。
でもアメリカでは少し違った反応だった。「挑戦に失敗したことは確かに残念だ。でも岩本は驚くべき挑戦をした」「挑戦したという事実、それだけで評価されるべきだ」「勇敢だ」という声が寄せられたという。「日本とアメリカでこんなに『挑戦』に対する評価が違うのか」岩本が立ち上がるきっかけになった。
「僕の夢を彼らがブロックする権利はないんじゃないか。目が見えない人は冒険してはいけないのか。『太平洋を横断してみたい』と思っても家でじっとしていないといけないのか」
どんなに辛い現状も、見方を変えればそれにも意味を見いだし、感謝することができる。いち早く船の浸水に気づき、辛坊氏に知らせることができたのは「自分の目が見えなかったおかげ」だと岩本はいう。「盲目の人は第6感ともいうべき、空間認識能力が発達しているのかもしれません」と岩本は振り返る。実際に、岩本は船にぶつかったのが“クジラ”だと“認識”していた(後に映像を解析すると、たしかに尾びれのようなものが確認された)。もし浸水に気づくのが遅れていたら、船は沈んでいただろう。
「クジラにぶつかったことにも感謝。クジラがぶつかったからこそ、いろいろなメディアに取り上げられて、知ってもらうきっかけになった。クジラがぶつかったことにも意味があると考えています」
広い太平洋で、船がクジラに衝突する確率はかなり低い。一見不運に思えてしまうこの事故も、岩本に言わせれば意味のある巡り合わせであり、感謝するべきことなのだ。
「いろんな人も大変な人生に直面しているかもしれないけども、ちょっと見方を変えて見てみると、「なんでこんなことが自分の人生に起こっているんだ」と思っていても、そこには意味があるんだと思うことで、それは感謝に変わるんじゃないか」
この事件をきっかけに大勢の「アンチ」が生まれたが、反対に岩本を応援してくれる「フォロワー」も生まれたという。そんな仲間たちとの“きずな”が、挑戦への原動力になっている。だからこそ、岩本も“夢”をそう簡単に諦めることはない。たった一度の失敗、ましてやバッシングやヘイトスピーチには負けたくないと言う。
今、岩本はトライアスロンに挑戦しようとしている。しかも水泳(3.8キロ)、自転車(180キロ)、フルマラソン(42.195キロ)で走破する最も過酷な競技だ。全盲でのトライアスロン挑戦は「恐怖」だという。
自転車は2人乗りのタンデムバイクだが下り坂では50キロ以上ものスピードが出る。「運転してくれてるかな、大丈夫かな、ぶつかるんじゃないか」そんなことを考えている余裕はない。スイムでは「見えない、話せない、聞こえない」。腰にベルトを巻き、ガイドとの間にロープを渡して泳ぐ。もちろん泳いでいる間はコミュニケーションを取ることができない。さらには岩本には「海でのトラウマ」もある。「トラウマを乗り越えるのは非常に大変でした」と岩本は言う。岩本にとって、そこまでして自らを過酷な環境にさらし、トライアスロンに挑戦することの意義とは一体何なのか。
「目が見えなくなった時に、社会へ出ようとしたのと同じ」だと言う。
「殻に閉じこもって自分のコンフォートゾーンにいたら、人生終わりだなと思った。僕にとってトライアスロン挑戦は特別な意味があるんです」
見えるようになると困るんです
見えるようになると困るんです――。街角で「目が見えるようになるように」と話しかけられた時、岩本はそう答えるのだという。
「僕がいま見えるようになったら、いまと同じようなインパクトは与えられない。目が見えないからこそ、いまのインパクトがある。見えないからこそ、いまの命があるんです」
確かに、トライアスロンに出場し、指針院を経営している人物は数多くいる。「失明している」からこそ岩本の意見に耳を傾け、岩本の言葉や行動に感化される人が多くいる。「目が見えないという事実を悲観的に考えることはまったくしていません」。16歳での自殺未遂から30年以上経ってたどり着いた岩本の“答え”だ。
太平洋横断も諦めていないし、フルアイアンマンも諦めていない――。彼の挑戦の原動力は支えてくれる周囲の人間たちとのきずな、そしてどんなことにも意味を見いだし、感謝をするということ。あとは簡単、行動するだけだ。
岩本光弘
1966年、熊本県生まれ。先天性の弱視のため16歳で完全に失明。一時は自殺を考え絶望の日々を送っていたが、現在は、カリフォルニア州サンディエゴで指針術クリニックを経営、妻と娘と共に暮らしている。一人でも多くの人に夢と希望を与えるために、セミナー講師、ライフコーチとして日米で現在活躍中。