リオ五輪でグループリーグ敗退を喫したU-23日本代表。本大会の登録メンバーは18名だが、そのメンバー以外にもリオに飛んだ選手がいる。
彼らは「バックアップメンバー」と称され、チームメイトが怪我したり、病気などでプレーができなくなった場合、すぐに入れ替えられるように一定期間、チームに帯同するのだ。選手だがベンチに入れず、プレーもできない。影武者のような存在だった彼らが見たリオ五輪とは……。(スポーツライター佐藤俊/Yahoo!ニュース編集部)
正式メンバーとバックアップの格差
リオ五輪を戦ったU-23日本代表は惜しくもグループリーグで敗退した。
チームには18名のメンバーがいたが、彼らの他にも同じ熱い思いで行動を共にしていた選手たちがいたのをご存知だろうか。野津田岳人(新潟)、中谷進之介(柏)、オナイウ阿道(千葉)、杉本大地(徳島)の4名、普段はJ1やJ2でプレーする。
彼らは「バックアップメンバー」と称され、8月1日から13日までの期間、18名のメンバーにケガ人や病人が出た場合に、すぐに入れ替えることができるようにチームに帯同していたのだ。4人は選手だが、本大会のメンバーではないのでいろんな活動の制限を受けている。
たとえば、2000年のシドニー五輪では、選手用IDが発行されなかったので練習グラウンドに入れず、4人だけで筋トレ中心のメニューをこなした。まともな練習ができない上に時間が短く、身体のコンディションは悪化するばかり。試合ではベンチに入れず、一般客と同じスタンド観戦になる。当時、バックアップメンバーだった遠藤保仁(ガンバ大阪)は、違和感と悔しい思いが募るばかりだったという。
「練習はみんなと一緒にできないし、コンディションは落ちていく。試合では世界に通じる大会で仲間が評価を上げているのをスタンドから黙って見ているだけ。俺、こんなところで何やってんだ。早く日本に帰って練習したいってずっと思っていた」
当時は、バックアップ選手であって選手ではない扱いだったのだ。
「自分の気持ちを封じ込める」影武者
リオ五輪では、そうした制限が一部緩和された。選手用IDが発行され、練習はメンバーと一緒にこなした。しかし、選手が抱える葛藤は16年前と同じだ。ベンチには入れず、スタンド観戦は変わらない。選手村に入村できず、他のスタッフとホテルでの宿泊になる。ミックスゾーンを通るが、記者たちからはほとんど話し掛けられることはない。試合に出場できないのでコンディション調整が難しく、試合勘を失ってしまう。仮に突然、登録されたとしても他の選手と初めて本番でプレーすることになるので連携面に不安を残すことになる。
しかも彼らの出場が実現するのはチームメイトが怪我したり、病気に倒れた場合なので、メンバーになれたからといって大喜びする訳にはいかない。バックアップメンバーは淡々と練習をこなし、有事の時のために静かに待機している影武者のような存在なのだ。
だが、試合を見るとどうしようもない焦燥感を感じずにはいられなかった。憧れの五輪で同世代の選手がピッチで活躍しているのだ。選手としてプレーしたい欲求が高まった。
ナイジェリア戦を見た時、野津田はその強い衝動に駆られたという。
「五輪という自分が目指してきた場所で、みんなが戦っているのを見ていると、自分も出たいという気持ちがどんどん強くなっていきました。それを抑えるには多少の苦しみがありましたね。でも、自分の役割はチームを盛り上げて、みんなのために準備すること。出たい気持ちは自分の中にしっかり封じ込めて、その悔しさはいつかピッチに出た時の自分のプレーにぶつけようと考えていました」
元バックアップメンバー、武蔵の活躍
彼らのスタンドから必死の応援の甲斐もなく、日本は初戦のナイジェリア戦、5失点して敗れ、勢いに乗れなかった。ホテルに戻ると失点に絡んだ選手が落ち込み、悩んでいた。そんな時、いつもの野津田なら何気なく声をかけるのだが、試合に出ていない自分が果たして声をかけていいものなのかと考えたという。
「やはりプレーしている選手には気を使います。自分が試合に出ていれば、なんてことはないんことなんですが……。ただ、初戦後、ちょっと悩んでいたり、プレーに難しさを感じている選手がいたので、そこはあえて声をかけました。すぐ次の試合があり、引きずってしまうのは良くないですからね」
「逆に、みんなからは『上から見ていてどうだった』と聞かれました。『試合の入りの部分でもっと自分たちでボールを繋いでやる意識をもった方がいい』という話をしました。自分は試合に出れないので、小さなことでもチームのためになればという思いがあったので」
チームは重苦しい雰囲気に包まれていたが、そんな中、野津田にとって希望とも言える明るいニュースがひとつあった。ナイジェリア戦、後半50分、元バックアップメンバーの鈴木武蔵が1点差に詰める貴重なゴールを決めたのだ。
「自分と同じ立場だった武蔵がメンバーに入って、すぐに試合に出て結果を出したのはすごくうれしかったですね。自分にもチャンスが巡ってきたら(活躍)できるんじゃないかって思えたし、そういう意味ですごく勇気をもらえた。武蔵とはブラジルに来る時、ポジティブにバックアップをやっていこうという話をしていたので、そういう気持ちがエネルギーになっていい結果に繋がったのかなと思います」
もともとブラジルへは野津田、鈴木、中谷の3人でやってきた。日本からの長い移動の時間の中、「とにかくチームのために盛り上げてやっていこう」と誓い合った。だが、ブラジルに到着後、3人の状況が変わった。遅れてチームに合流予定だった久保裕也がクラブ事情でリオ五輪に参加できなくなった。久保の代わりに鈴木が選ばれ、大会直前にメンバー入りを果たしたのだ。
試合に出た鈴木は、バックアップメンバーに素直に感謝の言葉を伝えた。
「バックアップから18人のメンバーに自分が登録されて……バックアップメンバー4人の悔しい気持ちが自分はよく分かるし、それでも嫌な顔をひとつせずにチームのためにできることをやってくれた。特に岳人(野津田)とはずっと同部屋で、メンバーに選ばれた時は誰よりも喜んでくれて本当に感謝している。その後押しもあって初戦に出てゴールを決めることができた。ほんと、みんなのために結果を出せてよかったと思います」
野津田らバックアップメンバーの声援を背に受けた鈴木はスウェーデン戦にも途中出場した。流れを変えて、今大会でのチーム初勝利に大きな貢献をした。野津田ら4人は、ちょっと高いスタンドからその姿を誇らし気な気持ちで見ていた。
悔しさしかない経験を、どう今後に活かす
野津田は、プレーできない自分に向き合った10日間だった。
「試合に出れない自分の気持ちへの向き合い方やコンディションの維持など難しい面がいろいろありました。でも、自分に出番が回ってこない可能性が100%ないわけではないの で、チームに何かあった時に自分の力を出せるように、この状況をいいエネルギーに変えてやってきた。結果的に出番はなかったですが、今は本当にこの悔しさを噛み締めて、それを力にして日本に帰ってからさらに成長したいと思っています」
バックアップメンバーのひとりである中谷は厳しい表情だった。
「実際、悔しいですし、試合に出ていないので何も得ていない。今、試合に出ているメンバーを飛び越えてA代表に入るためにどうすべき考えましたし、ピッチに自分が立てない差を感じたというか、その差を埋めるために頑張ってここからはい上がるしかない。これからのサッカー人生、自分がうまくいけばこの経験が活きたと言えるでしょうし、そう言えるようにしたいです」
腹の底に溜まっているマグマのように熱を持ったやり場のない悔しさが中谷の言葉や厳しい表情から伝わってきた。
結局、彼らは用意されていたユニフォームを一度も着ることなく、エキップメント(道具)のバッグに戻された。
バックアップは「悔しさしか残らない経験」なのかもしれない。それは、五輪に出場した選手の経験とは異質なものである。しかし、ここから巻き返し、見返し、成長するために永遠につづく強力なエネルギーになる。実際、シドニー五輪の後、遠藤はこの屈辱的な悔しさをバネに日本代表の中心選手へと成長し、ワールドカップに出場した。
影武者たちの短いリオ五輪は終わった。これから彼らを待っているのは「バックアップ」から「主役」へと道を切り開く戦いだ。
佐藤俊(さとう・しゅん)
スポーツライター。北海道出身、青山学院大学経営学部卒業。ワールドカップは1998年フランス大会から、五輪はサッカーを96年アトランタ大会から取材。現在はサッカーを中心に野球、陸上、ゴルフなど自分の好きなスポーツと選手に首を突っ込み、「Number」「Sportiva」など各種雑誌、WEB媒体などに寄稿。著者は、「中村俊輔リスタート」「宮本恒靖 学ぶ人」(文芸春秋)、「輪になれナニワ」(小学館)、「越境フットボーラー」(角川書店)など他著書あり。