比田勝大直

歓楽街・中洲に寄り添う「真夜中の日だまり」 親を支える夜間保育園

2016/7/19(火) 14:14 配信

福岡市博多区にある歓楽街・中洲。那珂川沿いに立ち並ぶ屋台は全国的にも有名な観光スポットであり、飲食店や風俗店など営業店舗数は2000軒にも及ぶ。そんな夜の街、中洲は大人たちの社交場であると同時に、1万人とも2万人ともいわれる女性たちが働く場だ。子どもを育てている女性も多い。シングルファーザーもいる。さまざまな事情を抱えた人々が働くこの街で、43年前から子どもたちを引き受けているのが、夜間保育園「どろんこ保育園」である。若い保母と学生のカップルが始めた小さな保育所は、やがて大人にとっても「日だまり」のような存在になっていった。「日だまり」の真ん中にあるものは、子育てとは、家族とはこうあるべき、といった理屈ではなく、一人一人の事情に寄り添う、日々の営みである。(ノンフィクションライター三宅玲子/Yahoo!ニュース編集部)

24時のお迎えラッシュ

那珂川をへだてて東側には博多商人の町、西側には福岡城を中心とした武家の町。ふたつの町に挟まれた中洲は遊興の街として400年の歴史を持つ九州最大の歓楽街だ。時代の流れとともに、大人の社交場から20〜30代が通うキャバクラも擁する街へと変化しながら、今も賑わいの絶えない夜の街である。

博多湾に続く那珂川が運ぶ磯の香りも中洲らしさのひとつ

時計の針が24時を回る頃、中洲から道路を隔てたすぐ隣に巨大な岩のようにそびえる大型複合施設・キャナルシティ博多のあたりは静けさに包まれる。

キャナルシティの真裏の暗がりにオレンジ色のあかりとともに浮かび上がる白い建物は、深夜26時まで開園する夜間保育園だ。中洲で働く親たちをはじめ報道や病院など夜勤のある職業の親たちが子どもを預けるこのどろんこ保育園では、日付が変わる頃から静かなお迎えラッシュが続く。

着物姿で現れた30代の母は中洲の隣のエリア・川端で夫と割烹を経営している。深い眠りについている子どもをそっと抱きかかえ、門の外で待つタクシーに乗り込む。続いて夫婦そろって迎えにきたふたりは中洲で日本料理店を経営していて、5歳と3歳の姉妹を預けている。ずっしりと重たい小さな身体を父と母がひとりずつ抱きあげると一瞬眼を覚ましかけた妹が、父親の肩に頬を押しつけてまた眠りに落ちた。

お昼前に登園したときから母は和服姿だった

子どもを持って働く親にとって、一般に保育園は子どもを預かってくれるありがたい場所ではあっても、保育園と親との間には、子どもを挟んで心理的な距離が生じることがある。親が心のどこかで子どもを預けて働くことに引け目を感じているところへ「子どもの育ちを最優先に」とか「もうちょっとお子さんのことを見てあげてください」と言われると、それが正しいだけに落ち込んでしまう。預けるのが夜となるとなおさらだろう。しかしどろんこ保育園は、まるで親の人生まで引き受けているようでさえある。

閉園まであと20分という25時40分、明るい色に染めた長い髪をなびかせて女性が駆け込んできた。この日最後のお迎えである。山口恵美さん(仮名)、31歳。中洲のニュークラブで働きながら小4の息子・ケイくん(仮名)をひとりで育てている。

つい先日、恵美さんは初めての客がむやみに身体に触れてくるのに、店長に気づかないふりをされすっかり気落ちしたが、お迎えのときに遅番の先生に暗がりで「先生、聞いて」とひとしきり話すと、少し気持ちが軽くなった。

「先生に話を聞いてもらえんかったら、子どもを連れて家にまっすぐ帰るだけ。大人と話ができんのはキツいと思うんですよね」

恵美さんが声をかけるとすぐに起きたケイくん

お休みの日はお子さんと一緒にいる時間を大事にしてください。ふつう保育園はそう親に言うものだが、どろんこ保育園は親が休みの日の登園を受け入れてきた。親にも休息が必要、むしろ内緒で仕事を休まれて緊急時に連絡がつかないことの方が危ない。それがどろんこの方針なのだと園長の城戸裕子さんは言う。恵美さんは、店が休みの日にケイくんを預けて美容院へ行ったことも、くさくさした気持ちを晴らすために友達と飲みに行ったこともある。

ケイくんはどろんこ保育園に生後6カ月で入った。卒園後はどろんこの学童保育に申し込み、登園歴は足かけ10年。小さかったケイくんは身長150センチ、体重は50キロを超える大柄に育ちもう抱っこで連れ帰ることはできない。

毎晩26時前に迎えにきた母と手をつないで近くの駐車場まで歩き、母の軽自動車の助手席でうとうとしながら郊外のアパートに帰る。そして朝7時に起きて母のつくった簡単な朝食をとり、歩いて30分ほどの公立小学校に通う。恵美さんは犬の散歩がてらケイくんを大通りまで送っていくのが日課だ。夕方帰宅したケイくんが宿題を済ませてから17時過ぎにまたケイくんを助手席に乗せて車で保育園へ。保育園前の月極駐車場に車を停めて18時に登園し、中洲の店まで5分、自転車を漕ぐ。

恵美さんは開店前、美容師に髪を美しくセットしてもらっていた

恵美さんは居酒屋や無認可保育園で非正規の仕事をしていた21歳で恋人との子を妊娠し、結婚せずに出産する。公団アパートで赤ちゃんと二人きりの生活は、静かで穏やかで幸せだったけれど、働き始めたパチンコ屋の給料では生活が立ち行かず中洲で働く決心をした。

そのとき、預けていた保育園の園長から「中洲で働くならいい保育園があるよ」とどろんこ保育園を紹介された。だが最初は無認可の託児所に預けて店に出始める。

産後の安定しない身体に露出の多いドレスをまとうのも、酒と煙草の匂いの充満する空間に身を置くのもつらかった。母乳パッドをつけていても溢れ出る母乳と強い照明のせいで流れ出る汗が混じり合い自分の胸元からたちあがる強烈な匂い。慣れない接客で店と衝突し、1カ月で辞めた。少し時間を空けて店に戻ろうというとき、今度はちゃんとプロとして仕事をしよう、そのために夜遅くまで安心して預けることのできる認可保育園に子どもを入れようと考えたのだという。

再び中洲に戻るタイミングで恵美さんはどろんこ保育園に入園希望を出し、ケイくんは受け入れられた。

中洲のホステス行きつけの靴店には華やかなハイヒールが並ぶ。ホステスは中洲の華。夢を与える仕事だから美しく背筋を伸ばしていてほしい。古くからの中洲を知る男性はそう言う

43年前、長屋から始まった

どろんこ保育園は1973(昭和48)年、「住吉夜間保育所」という名前で出発している。若い保母(当時)と司法試験の準備中だった大学生のカップルがこの保育所を始めた。

きっかけは、彼女が、働いていた保育園の保護者から「夜も預かってほしい」と頼まれて個人的に自宅で預かるようになったことだ。彼女が両親と暮らす家の自室で子どもを預かり、寝入っている彼女と子どもたちの隣で彼が司法試験の勉強をし、迎えに来た親に子どもを渡すという生活が続いた。

1年後、「2、3カ月やってみてダメやったらやめればいいっちゃけん」という彼女の言葉に押されるようにして、ふたりで中洲に隣接する住吉の住宅街に長屋を借りた。

中洲の街並には昭和の風情が色濃く、平成の今もなお人情が厚い

東大紛争のあった1969(昭和44)年に九州大学法学部に入学した彼は、九大キャンパスでも繰り広げられる学生運動を間近に見ながら「こんなもので社会は変わらん」と思い、また、学生運動にのめり込んだ同級生が何食わぬ顔をして大企業に就職していくのをしらけた思いで見送り、留年して検察官を目指して受験勉強をしていたが、恋人に巻き込まれるようにして20万円の貯金を元手に保育園運営を始めていく。

経済成長の波が高く押し寄せたその頃、 3千軒とも4千軒ともいわれた中洲の飲食店で働くおよそ1万5千人の女性の中には子どものいるホステスも珍しくなかった。

中洲には託児所完備のキャバレーもたくさんあったが、そこでは子どもたちは遊ぶ時間もなく無理矢理寝かしつけられ、23時になると起こされてヤクルトを飲みながら母親の迎えを待つという機械的な扱われ方をしていた。

不憫に思った母親がこの「住吉夜間保育所」に試しに預けてみたら、子どもはぐっすり寝ていられるし、晩ごはんは食べさせてくれるし、若い経営者のふたりはなんだか人がよさそうだ、というので口コミで預ける親が増えていく。

遅番の先生はどろんこ保育園の昼間の部に子どもを預けていた元保護者。子育てが終わり、保育園で働くようになった

保育園の隣の焼き鳥屋に来る覚せい剤依存症の客が幻覚のため包丁を振り回しながら乗り込んできたり、その焼き鳥屋が実は覚せい剤の売人で覚せい剤を水増しするためにコーラの粉末をつくっていたりすることもあった。ホステスの母親が持ち帰った鰻だの寿司だのの折り詰めや居酒屋経営の父親がケースで持ち込んだビールで、宴会が始まる夜もあったという。

風俗で働く母親から「給料が支払われん」と愚痴を聞かされたり、スナック勤めの母親から「ママからお客とつき合えって言われるっちゃけど、行きたくないんよね」と相談されたりするうちに、自然と今のどろんこ保育園の親を支える風土ができあがった。

43年前の開園当初の保護者・山下晃さん(仮名)に会うことができた。キャバレーを経営する会社の営業部長として約千人の女性をとりまとめる仕事をしていた山下さんは、離婚して生後4カ月の娘をどろんこ保育園に預けていたという。

「冬のある夜、仕事が終わって迎えに行ったとき、月夜でちょうど雪が降っていました。背中におぶった娘に『おい、お前が初めて見る雪だぞ』と言いながら歩いた、その夜のことを今でもふと思い出すんです」

自分で運転して帰るため、恵美さんは店ではお茶で通している

夜間保育は子どもの発達成長に悪影響を及ぼすというのが保育関係者を含め社会一般の見方だった当時、親の引け目は今とは比べようもなかっただろう。月夜に降る雪の美しさを娘に語りかける心の余裕を与えてくれたのはどろんこ保育園だったと、山下さんは言った。

女性が働いてきた街

あのとき法学部の大学生だった天久薫(あまひさ・かおる)さんは、現在どろんこ保育園を含め3園を運営する社会福祉法人四季の会の理事長である。

若さと勢いで始めた長屋の託児所だったが、天久さんはカベにぶち当たった。広く日当りのいい環境と、子どもたちに必要な保育の質を保つための保母を雇う費用は、保護者から支払われる保育料では到底賄えないのだ。最初は近所の主婦を雇っていたが、保母の資格を持つ職員を採用するために、1万8千円からスタートした保育料は最終的に2万7千円まで値上げした。保育料が高いことが理由で退園した保護者は一人もいなかった。しかし、認可保育園となって自治体からの支援を受けない限り、狭くて防火設備が整わない環境から抜け出すことができない。それはどうにもならない現実だった。

「司法試験の準備中に道ばたで困っている人を見て手伝っていたら、気がつけば試験をそっちのけにしてしまっていたような感じ」と、天久さん

ちょうどその頃、福岡市では保育園不足の対策として、福岡市議・北岡幸太郎氏(故人)の働きかけにより、行政が無償で土地を提供し社会福祉法人など保育園運営者が建物の建設費を自己負担する「福岡方式」が立ち上がっていた。

中洲の料飲組合長でもあった北岡市議を、先述の山下さんが中洲人脈によって天久さんにつなぎ、長屋の託児所は日本でまだ数少なかった認可夜間保育園へとコマを進めることになる。

地元の都市開発ディベロッパー・福岡地所が、自社で取得したカネボウ(当時)の紡績工場跡地3万4千平米のうち、1千平米弱をこの「福岡方式」に従って福岡市に売却した。

1902年に建てられたカネボウの紡績工場は、1901年に北九州・八幡で開業した製鉄所(八幡製鉄所、現・新日鐡住金)とともに、日本の近代工業化の象徴的存在だった。

建設にあたり、九州一円から出稼ぎにきていた女工たちの哀しみの歴史を調べていたキャナルシティの開発責任者・藤賢一さん(現福岡地所顧問)は、無名の女性たちが働いてきたこの工場跡地に中洲で働く女性たちを支える保育園が誕生することに、運命を感じたという。

キャナルシティはいま、中国人をはじめとするアジアからの観光客で賑わう

藤さんは保育園が竣工し子どもたちの遊び声が聞こえたときのことを今もはっきりと覚えている。「ああ、この街に血が流れ始めた、て感じたよねえ」と、藤さんは感慨を込めた。

このときつけられた「どろんこ保育園」という園名は、夜の街に存在することが宿命づけられた夜間保育園の、土とひなたへの憧れである。

親の都合を考えてくれた

山川浩一さん(仮名)は、どろんこ保育園にひとり息子・たいちゃん(仮名)を預けて働いてきたシングルファーザーだ。たいちゃんは一昨年卒園し、今は中洲近くの公立小学校に通う。博多の風物詩・博多山笠の季節には、祭りの暦に合わせて学校行事が組まれるというくらいに地域と一体化した学校で、たいちゃんは中洲流(なかすながれ)から子ども山笠に参加する。

大人の足で5、6分の住吉神社。街の中心部にありながら緑が茂るこの神社で、子どもたちは花や虫をじっくりじっくり眺める

「小学校にあがってだいぶ楽になりました。もう自分で何でもするようになりましたからね。朝は6時半に僕のことを起こしてくれます。ええ、うちの息子、しっかりしてるんすよ」

と笑う山川さんは、強豪校で野球に打ち込んだ元高校球児。背筋の伸びた長身で細身のスーツをすっきりと着こなす。現在は3店のクラブを経営する会社の営業部長として中洲で働く。どろんこ保育園での思い出を尋ねたが、「あまりに必死すぎて、覚えてないんです」

中洲の飲食店運営会社の幹部だった6年前、税務署の査察により店が休業に追い込まれ、手元に残った100万円を軍資金に知人とラーメン屋を始めた。ほぼ同時期に妻と別れ1歳にならない息子と二人の生活になる。会社が支払わなかった従業員への給料未払い分を個人で闇金融から借金して清算したため650万円の借金を抱え、1週間福祉事務所に通い続けてようやくどろんこ保育園へ入所した。このとき理事長の天久さんは父子家庭の山川さん親子を最優先で受け入れている。

「どろんこは親の都合で考えてくれた」と山川さんは言った。夜間保育は11時から22時が基本だが、その前の1時間と後の4時間を延長保育にしたことで、仕込みの時間と深夜までの営業時間を確保することができた。お客さんから勧められた酒は売上のために精一杯飲み、 酔っ払って迎えに行く夜もある。寝ている子どもたちの間に座り込んで、借金のこと、店の経営のことなど、遅番の先生に洗いざらい話した。

深夜26時過ぎ、息子をおんぶして店に戻り片づけ始めると、眼を覚ました息子が背中から小さな手を伸ばして、カベにかけてあるラーメンの水切りアミをひとつずつ取っては落とし、取っては落としていった。今では懐かしい思い出だという。借金は3年前にようやく返し終わった。

屋上庭園に植えられた桜の木の下で、春にはおやじの会が花見の宴会をする

真夜中の日だまり

しかし、どろんこ保育園が中洲で働く全ての親の子どもを受け入れられるわけではない。中洲で未就学児を持って働くほとんどの親は、子どもを無認可保育園に預けている。

中洲だけではない。新宿にも大阪・新地にも札幌のすすきのにも、夜の街のそばには必ず夜間保育園がある。しかし、どろんこ保育園のように行政の助成金により保育環境の充実を実現してきた全国の認可夜間保育園はわずか82園(2015年)。圧倒的多数である無認可園の状況は、環境も有資格者の配置も認可園とは比べようもない厳しさだ。今回の中洲取材でも、どろんこ保育園に入れたいけどなかなか空きがなくて入れないという声が何人もの親から聞かれた。

仕事と子ども、忙しい毎日。保育園が親にとってエネルギーチャージの場にもなっている

日曜も祝日も、静まった夜の街にオレンジのあかりがともる。深夜になると、そのあかりの中に、お迎えの親が吸い込まれていく。親たちは、仕事を終えて駆け込むように迎えにきてこのあかりを見るとホッとするのだという。大人の街と隣り合って存在することが運命づけられた夜間保育園・どろんこ保育園は、親たちにとってもかけがえのない日だまりである。

社会が複雑に変化していく中、子どもを育てることに不安を感じない親はいない。

カンペキな親なんてめざさんでいいとよ。

お母さん、たまにはゆっくりして。

どろんこでは園長や保育士から保護者に語りかけられるこんな言葉が、ときに親のこわばった心をほぐし、笑顔を引き出す。

「子どもは親と運命共同体だから、親の幸せあっての子どもの幸せ。子どもの幸せは親の幸せの中にある」

と天久さんは、親を支えることの重要性を指摘する。

さまざまな背景を持つ親と子を支えてきたどろんこ保育園のような日だまりは、仕事の有無や幼稚園か保育園かにかかわらず、親が親であるためにどんな親にも必要な支えである。


三宅玲子(みやけ・れいこ)
1967年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。 「人物と世の中」をテーマに取材。どろんこ保育園は2015年12月より継続取材中。2009年3月〜2014年1月北京在住。ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルプロジェクト「Billion Beats」運営。

[写真]
撮影:比田勝大直
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝

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