全世界の出荷本数累計1700万本以上の「レイトン」シリーズ、同じく1600万本以上の「妖怪ウォッチ」シリーズなど、多くのヒットゲームを生み出してきたレベルファイブ。同社の大きな特徴は、創業社長の日野晃博さん自らが制作に深く関わっていることだ。社長という立場でありながら、どのようにアイデアを出すのか、なぜこれほどヒット作が多いのか。日野さんに尋ねた。(ジャーナリスト・森健/Yahoo!ニュース 特集編集部)
ゼロから1を生む世界観をつくるのが仕事
──現在、社員は300人ほどで、コンテンツ企画やプロモーション、アート、サウンドなど12の部署があります。日野さんはすべての制作に関わると聞きます。複数のプロジェクトもあるなか、どのように関わっているのでしょうか。
まず僕の役割が普通の社長と違います。社長業もあるんですが、プロデューサーの要素もディレクターの要素もある。まず先頭に立ってものをつくる。ゲームであれ、アニメであれ、クリエイティブでイメージが必要なものはすべて関わっています。
──関わりは制作のすべての工程に及びますか?
僕がおもにやっているのはゼロから1を生み出す、いわば世界観をつくる最初の段階です。「妖怪ウォッチ」というものをつくる、「レイトン教授」というものをつくる。物語を書く、絵でイメージを伝える、あるいは歌の歌詞を書く。そういう最初に浮かんだアイデアを恥ずかしげもなく発言し、まわりにこういう作品なんだよと認めてもらう。その努力をするのが一番の仕事です。
──絵まで描くんですか。
あ、もちろんその絵を直接使うことはありません。デザイナーに対して「こんなキャラクターをつくって」と伝えるための絵です。そこで「これはいい」「これはちょっと違う」とやりとりして、キャラクターをつくってみて、そこで上がってきた絵を頭の中で動かしてみて、面白くなりそうなら「ゴー」だし、そうでもないなと思えばやめる。そういうゼロ段階の作業のほとんどをやるのが僕の仕事ですね。
日野さんは、ゲーム業界を代表するクリエイターだ。1968年、福岡県大牟田市に生まれ、「ドラゴンクエストIII」などに夢中になったことからゲーム制作会社に就職。98年に独立し、レベルファイブを起業した。同社は1作目で「プレイステーション2」のRPG「ダーククラウド」(2000年)の開発を手がけると、海外で100万本を超すヒットに。まもなく受託開発を請け負った「ドラゴンクエストVIII」(04年)ではシリーズ初の3Dグラフィックを採用、PS2のソフトでは最多の出荷本数となった。
試された気分で仲間と起業
そんな日野さんだが、当初は強い独立志向があったわけではなかったという。ゲーム制作会社に在籍していた1997年ごろ、「プレイステーション」のソフトを統括するソニー・コンピュータエンターテイメント(SCE。現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)の佐藤明副社長(当時)と話をする機会があった。
その佐藤さんに対して、僕はSCEの社員になってドラクエのようなゲームを開発できたらいいなと話したんです。ところが、佐藤さんは僕に「ソニーに来ると、また会社で言われたものをつくらないといけない。それより、君は自分で会社をつくり、好きなものをつくったほうがいい」と言うわけです。「え!」と驚きました。でも、これは裏を返せば、覚悟を試されているなと受け取ったんです。試されているんだとしたら、覚悟を示さないといけない。それで一緒についてきてくれるスタッフと立ち上げたのが、レベルファイブなんです。
──起業にあたって不安は?
悩んだ記憶がないんですよ。むしろ当時「プレイステーション2」という新しいハードが出ると聞いて、新しいゲームをつくれる!と、そっちに関心がありました。最初のメンバーは9人、すぐに2人増えて11人で開発をはじめました。最初は余裕もないので、1時間200円の会議室とか使っていました。
──1作目のアクションRPG「ダーククラウド」はいきなり海外で100万本を超えるヒットになりました。その後は「ドラゴンクエストVIII」の開発に携わることになります。
ちょうど「ダーククラウド2」という作品をつくっているところに、あるプロデューサーからドラクエに似たような作品の開発話があったのですが、その時は手が空かないので引き受けられませんでした。ところが、ある日その人との飲み会の席で「ドラゴンクエストVII」のときの僕なりの不満というのをつい並べ立ててしまったんです。僕のドラクエ愛は相当深いので。細かく延々と話したら、「そんなに愛があるんなら、ドラクエ作ればいいじゃないの」という話になり……。じゃあ、とデモで3Dのドラクエをつくったんです。従来の2頭身ではなく8頭身で。それをコンペに出したところ、気に入ってもらえて、話が進みました。
──その「細かい点」とはどういうものですか。
ドラクエのアートには独特のルールがあるんです。たとえば海に近い街の壁はグレーなんですが、海のすぐ近くにある家は青いグラデーションがかかるとか、海からの光の照り返しがあります。それは長年ドラクエをつくってきたアート担当者のこだわりなんです。そこで「VIII」や「IX」では、そうしたドラクエのルールをしっかり適用して制作しました。
「頭の体操」とシャーロック・ホームズ
ゲームの受託開発(デベロッパー)として順調な出だしを切ったレベルファイブだったが、日野さんはこの時点で別の方向性を考えていた。企画から宣伝、広報まですべて自社で行うパブリッシャーとしてのソフト開発だ。ただし、開発費なども自社負担のため、リスクがある。そのリスクをとって乗り出したのが、ナゾトキ・ファンタジーアドベンチャー「レイトン教授」シリーズだった。
──パブリッシャーになろうというのはずっと考えていたことですか。
いや、もう本当にお試しでやってみるという感じです。だから、毎年やっている社員総会の場でその意向を発表したところ、レイトンの開発チームに入りたいスタッフは少なかったですね。当時、ごく少人数でレイトンをやる感じでした。リスクが大きいので、社員を不安にさせないように「あくまでも実験です」ということは繰り返し言っていました。
──1970年代に大ヒットした本「頭の体操」のようなパズルを解いていきながら、ミステリーのようなストーリーをたどっていく。そんな「レイトン教授」ですが、どのように生み出されたのですか。
もともと「頭の体操」、僕が好きだったんです。そこで、当時「脳トレ」が流行っていたこともあり、「頭の体操」のような謎解きやパズルをベースにした作品を作ろうと考えました。レイトンという名前、シリーズは三部作構成、シャーロック・ホームズと相棒のワトソンみたいなキャラクターでのストーリー……。こうした要素も早い段階から頭にありました。
──かなりイメージがあったんですね。
はい。パブリッシャーとしてのリスクを背負って出そうということだったので、失敗はできない。会社として利益をしっかり出すが大事でした。だから、「頭の体操」の作問者だった多湖輝先生(千葉大学名誉教授)にも協力を仰ぎましたし、声優に大泉洋さんや堀北真希さんらを起用して話題作りも行った。じつは「レイトン教授」をつくりだして一番勉強になったのは、つくり方よりも宣伝でした。
──どういうことですか。
当時3億円くらい出すのが普通の時代に、「レイトン」ははじめ宣伝費1.5億円しか使えなかったんです。なけなしのお金です。それでも、なんとか長期的に宣伝費を捻出した結果、ヒットさせることができました。宣伝費は最終的に7億円ほどにまでなっていましたが、とにかく一般に知ってもらわないと売れないというのはものすごく勉強になった。おもしろいゲームを作ったからみんな買うだろうという、甘っちょろい考えはだめだと痛感しました。
──そういう考え方は、クリエイターよりもむしろ社長としての視点のように感じます。
両方あるでしょうね。でも、そこで売り方について学びました。その経験を踏まえて考えたのは、ゲームだけでなく、アニメやマンガなども組み合わせるクロスメディア展開です。それが次作のサッカーRPG「イナズマイレブン」やその先の「妖怪ウォッチ」につながるんです。
キャラという回路をつくりこむ
「妖怪ウォッチ」は、2012年末に子ども向けのマンガ雑誌で連載がはじまり、半年後の13年7月にゲームが発売された。14年1月にはテレビアニメ、関連玩具、音楽と多様なメディアが展開され、爆発的なヒットとなった。これは日野さんが緻密に立てた戦略だった。
──出版社にマンガ連載の企画を持ち込んだ際は、「妖怪はヒットの実績がない」と言われたそうですね。
はい。ただ、そういう予測って、実際に世に出してみるまで分からないと思いますね。僕が考えていたのは、やはり子どもが欲しくなるためのお膳立てのプロセスでした。5000円近いゲームソフトを子どもが簡単に買えるわけではありません。誕生日とかクリスマスに初めて買ってもらえる。そのときに絶対欲しいと言ってもらうには、そのコンテンツにつねに触れていて、無料の段階で好きになっていることが必要。つまり、テレビで毎週放送されていて、たまに買うマンガにも載っている状態です。それらを考えて、出版社に交渉に行ったんです。
──実際のヒットの流れを見ると、まさにそんな戦略が見事に効いたように見えます。
でも、やはり大事なのはキャラクターです。キャラクターは大事な回路なんです。
──回路とはどういうことでしょう。
車にはエンジンやハンドル、シート、ブレーキなどがありますよね。ゲームやアニメも物語を前に進めるためのキャラクターが必要なんです。笑わせるキャラ、せつないキャラ、かっこいいキャラ。そういうのが10人くらいいて話が回る。
だから、「妖怪ウォッチ」ではジャイアンキャラ、スネ夫キャラなど藤子不二雄作品で培われたキャラの組み合わせも参考にしました。ただ、主人公はのび太ほど落ちこぼれにはしなかった。ふつうの成績の特徴のない子。それが現代の子だろうなと。
──そこが多くの子どもに共感された。
そうですね。物語をつくる前には小学生の悩みとかもかなりリサーチしました。
──結果的に爆発的なヒットになったわけですが、経営もある種ゲーム的な感覚なのでしょうか。
いや、経営は本当に分からないというか……、経営自体にはおもしろみを感じているわけではないですね。やはり楽しいのは、ものをつくっているときです。
空想しているときの1時間は1分の感覚
──どんなときにおもしろさややりがいを感じるのでしょうか。
自分が何かつくって、身近な人にみてもらい、いいとか悪いとか言ってくれるときが一番楽しいですね。やりがいについては、自分で考えたり、ものを書いたりと空想しているときです。一番アドレナリンが出ていると思います。いまでもそうですが、空想したり書いたりしていると集中しているから1時間が1分のように感じるんです。“脳汁”が出ているんでしょうね。
──そんなふうにつくったのはどの作品でしょう。
自社のゲームは全部愛着ありますが……、なかでも「レイトン教授」の2作目、3作目かな。まだゲーム開発に入る前、自分でシナリオを集中して書いていて、これはいいのができたと思えたんです。3作目のシナリオを書いているときは、自分で物語に感情移入して涙まで流していました。でも、そのとき「こういう感じで満足してものづくりをできるときがあるんだ」と深く感じるものがありました。
──今年はコロナ禍の巣ごもりでゲームを楽しむ人も増えたように思います。作り手としてはどんな感慨ですか。
コロナ禍が続くなか、「鬼滅の刃」が映画やアニメ、コミックで大ヒットしていますよね。あれを見ていると、いいクリエイティブがあれば、人は集まるんだなと思います。飲食のように厳しい業界もあります。でも、われわれのようなものづくりをする業界は、いい作品をつくるしかない。それはこの年の終わりに思うところですね。
※写真は一部を除き、レベルファイブの提供
森健(もり・けん)
ジャーナリスト。1968年東京都生まれ。早稲田大学卒業後、総合誌の専属記者などを経て独立。『「つなみ」の子どもたち』で2012年に第43回大宅壮一ノンフィクション賞受賞、『小倉昌男 祈りと経営』で2015年に第22回小学館ノンフィクション大賞、2017年に第48回大宅壮一ノンフィクション賞、ビジネス書大賞2017審査員特別賞受賞。公式サイト