出版と映画、音楽。日本で初めて、複数のメディアを組み合わせて展開する「メディアミックス」を開発した角川春樹。「角川映画」を生み出し、発展させたが、その後、自身が会社を追い出されるなど波乱の日々を送ってきた。現在78歳、いまなお映画の監督をし、書籍の編集にも精力的に取り組む。その陰には、心から慈しむ8歳の息子と若い妻の存在があった。(取材・文:ジャーナリスト・森健/撮影:岡本隆史/Yahoo!ニュース 特集編集部)
(文中敬称略)
「君のパパ、おじいさんみたいだね」
皇居に近い北の丸公園を望むオフィス。この半世紀、破天荒な存在として知られてきたプロデューサーは落ち着いた佇まいでソファにかけていた。1942年生まれの78歳、角川春樹。壁には複数の日本刀に、眼光の鋭い写真。だが、こちらには柔和な表情を向けた。
──いま小学生のお子さんがいらっしゃるそうですね。
うん。今月で8歳。妻が38歳で私が78歳。2011年に結婚したんです。それで翌年息子が生まれた。息子が生まれる前から、妻のおなかのエコー写真を撮って、日記に貼ってきたんだ。生まれる年の元旦には(安産祈願で知られる)水天宮にも祈願したよ。
──生まれる前から熱心だったんですね。
普通なら孫にあたる存在なんですよ。実際、幼稚園の時など、うちの子はまわりの子からいやみを言われていた。「君のパパ、おじいさんみたいだね」と。それは息子にとっても恥ずかしく、耐えていたらしいんだ。でも、小学校に上がって、そういうことを言われても開き直れるようになったと。「僕のパパだし、何か文句あるの」。そう言って黙らせると。
──成長したわけですね。
そう。いまは家に帰って食事したら、子どもと風呂に入り、寝る前に読み聞かせをしてる。ただ、最近は自分で本を読んでいて、私が近寄ると「パパ、暑いからいいよ」って。それも成長なんだけど……、ちょっと寂しいよね。
出版と映画の世界で角川は突出した存在だ。父・角川源義が創業した出版社、角川書店に1965年に入社。1975年に父が亡くなると社長に就任、出版社として映画製作に乗り出し、第一作『犬神家の一族』を大ヒットに導いた。出版と映画などを組み合わせて展開する「メディアミックス」は彼が生み出した手法だ。1980年には南極など世界各地でのロケを敢行した大作『復活の日』も手掛け、その後、薬師丸ひろ子や原田知世など人気女優が輩出し、「角川映画」として発展させた。
一方、穏やかならざる活動も耳目を集めてきた。1992年、実弟を経営陣から追い出したが、翌年逆に自身が追い出され、弟が戻ることになった。また、自らをヤマトタケルや武田信玄などの生まれ変わりと称したり、UFOの目撃譚を語ったりすることで、風変わりな人と評されることもあった。
そんな時代の彼を知る人にとって、子どもの話を慈しむようにする現在の姿は意外に映るかもしれない。かつては「生母と縁を切り」、父親からは「4回勘当された」と語り、複数の結婚と離婚を繰り返すなかで「家族とは呪縛」とまで語っていた過去もあるからだ。
京都・伏見稲荷山で待っていた天狗
──いまの奥様とは6度目の結婚ですね。2005年ごろは「結婚も呪縛」という発言をしていましたが、どういう心境の変化でしょうか。
2011年の東日本大震災がきっかけでね。あれを経験して、家族をもう一回つくろうという考えになった。
私も震災当時、寄付をするだけではなく、気仙沼市や南三陸町など被災地に足を運んだ。そこの小学校に行って図書カードを配ったりもした。そうすると、子どもたちが「ありがとう」って言って、人文字をつくってくれたり、手紙をくれたりした。こういう体験には本当に感動した。
それだけじゃない。うちの会社で出している若い女の子向けの雑誌『ポップティーン』には、被災経験を持つ読者の子からもメッセージが来ていた。例えば、津波で溺れそうになった女の子。メッセージによると、彼女を生き延びさせるため、彼女のきょうだいが彼女を(津波の)水に浸からないよう、高いところに上げたと。ところが、きょうだいは犠牲になってしまったと。そんな悲痛な体験を送ってきていた。
──そこで家族は大事だとあらためて思ったわけですか。
うん、そういう体験をさまざま見てね、もう一度家族をつくろうって決めたんだ。だから、いま私の活動で一番大きな存在は、息子と妻でね。それがあって、また10年ぶりに映画を撮ることにもなったんです。
──どういうことでしょうか。
きっかけは家族で行った(京都の)伏見稲荷山なんだよ。そこで不思議なことがあって。
──何があったんですか。
2年前の8月、伏見稲荷山に妻と息子と登ったんだ。あそこは一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰といくつか社があるんだが、頂上に行く前に、男坂、女坂と二又に分かれる場所がある。そこまで登っていった時に、80代ぐらいの男性がいたんだ。白いスニーカー、白いソックス、白いパンツ、白いポロシャツ、白い野球帽。その彼は我々が進んだのを見送った。それなのに、頂上に着いたら、その男性が茶屋で話をしていた。テレポーテーションしてたわけだ。でも、それを見て直感で分かった。あの老人は天狗、猿田彦だと。
──天狗ですか……。
いや、笑っていいんだ。それが普通の反応だから。うちの妻にも、そう言ったけど、最初は妻も全く信じなかった。
翌日、京都から帰る時、彼女が伏見稲荷山のことをスマホで調べた。すると、あの中の神の一人に佐田彦大神(猿田彦大神)というのがいて、猿田彦はイコール天狗だと書いてあった。それで妻もこれは偶然ではない、私たちを待っていたんだと悟った。
そしたら、その2、3日後ですよ。妻が突然、神がかりになったみたいに「『みをつくし料理帖』という小説を、あなたが監督として撮るべきよ。最後の作品として」と言い出した。
──要は、映画製作は奥様に背中を押されたわけですね。
うん、いや、この『みをつくし料理帖』というのは、これまで映画化に関して、制作会社や配給会社などいろいろなところと話をしてたんだ。ところが、どういうわけか映画だけは成立してこなかった。テレビでは何度かやっているのに。けれど、ここで(妻から)言われたことで、私も動き出した。確かに進めるのは簡単ではなかった。けれど、こうして進んだわけだ。
私が抜擢した女優はみな成功している
そうして監督した映画が『みをつくし料理帖』。舞台は江戸時代、女料理人と花魁の女性2人の友情を描いた作品だ。主演は松本穂香、奈緒という新進の若手女優だが、脇を固める俳優には、榎木孝明、石坂浩二、薬師丸ひろ子など、往年の角川映画のスターが並ぶ。
──映画ですが、過去の大型作品と比べると、やや意外な印象がありました。
10人いれば10人が同じこと言っている。製作にあたって、私が配給会社に約束したのは、主演の2人を公開前にブレイクさせておくということ。大丈夫、心配いらないと。俺がやるんだからスターになるよと。
──起用した時点でですか。
これまで私が抜擢した女優はみな成功しているんでね。スターになるのは分かってるわけだ。これまでも角川3人娘(薬師丸ひろ子、渡辺典子、原田知世)以外で、浅野温子、安達祐実、宮沢りえ、みんな自分で選んでる。演技のうまさを見てるんじゃない。自分の直感で「こいつはものになる」と分かるんだ。
──この作品ではどこに勝因があると思ったんでしょう。
女性同士の友情という作品はあまりないんだ。それと料理という要素もある。いまテレビは料理番組ばかりでしょう。安く製作できるというメリットもあるんだけど、女性にとって食への関心は男性より高いのも確かでね。
──つまり、女性の集客を狙ったわけですね。
今回の映画のターゲットを、私は30代、40代の女性に置いた。これぐらいの年齢の女性たちは自分で食べにいくし、自分で映画を見るし、おしゃれにお金も使う。つまり、小金を持っている。この女性たちは単独でも映画を見にいくし、友だち同士でも行く。あるいは恋人を引っ張っていく力もある。つまり、男性より女性のほうが、そういう力があるんだ。うちの社員なんか見ても女性のほうが活動的だしね。
──非常にマーケティング的な発想ですね。昔、映画製作を熱心にされていた時も、そういう発想をしていましたか。
してない。まぁ、付け足しみたいに言ったけど、さっきのも自分では本気にしてない。でまかせだよね。でも、ターゲットくらいは大まかには決めるよ。40代向けと10代向けじゃ撮り方も違うし、宣伝方法も違ってくるから。SNSの世界は今回考えてない。
──SNSも見るんですか。
知らないよ、そんなの。10代や20代の世界だろう。でも、うちの妻は見てますね。38歳だから。本当に依存症じゃないかって思うくらいスマホをいじってますよ。
1日1冊、本を読んで評価を記す
映画製作や社長業で名が知られるが、もともと角川は編集者である。現在も角川春樹事務所の社長でありながら、編集者として作家の原稿を読むという。
──いまも編集者だと最近のインタビューで語っていました。
角川春樹プロデュース本のヒット率は異常に高いんだよ。出版後、重版をかけた本は9割。単行本、文庫本、どちらも3回は刷る。しかも、北方謙三さん以外、前の会社(角川書店)で関係が切れている。だから、いまの会社で出しているのは、ここで育てた人。
──名が知れた作家を引っ張ってこなかったんですか。
いや。育ててきた。それをしないと文芸出版社をやっている意味がないし、存続もできない。企画はすべてゼロからつくる。そもそも既成の知られた偉い作家はうちで書かないよ。引き受けるのは新人作家。だから、何を書くのか、モチーフは全部こちらで案を考える。というか、ほとんどの新人作家は、だいたいこの部屋(社長室)で食事しながら話をしてるんだよ。
──いまでもそんな現場の編集者のようなことをしているんですか。
やりますよ。全部。いまでも1日1冊読んで、自分の日記帳に毎日感想を書いてる。どんな日だったかという日記と一緒にAからDと本の評価も書く。毎日夕方にね。本を読むのは、寝るまでの時間、通勤の車の中とか、どこでも読んでる。
朝は3時半に起きて、神仏の水を替えて、神社に行って、6時ごろ会社に来て、それから本を読み出すわけだ。途中でコロナを止める祈りもやってる。まぁ、ただ、コロナによって夜の会食がめっきり減ったことで、本は読みやすいね。夜は子どもを寝させてから1杯だけ飲んで寝ちゃうけども。
──やはり基本は編集者なんですか。
プロデューサーで編集者だね。もうすぐ発売される小説の中に「人は食べたものと、読んだもので出来ている」という言葉がある。私も同じことを思ってる。本に携わってない人には関係ないけれど、私に限っていえば、食べものと本でできてるよ。
90歳で息子の成人式を見たい
旺盛な活動で本や映画を半世紀の間製作してきたが、そうして生み出されたストーリーには一つの傾向がある。親子やきょうだいが殺しあったり、許しあったりする家族間の強い愛憎関係だ。そこに角川の思いが反映されているという指摘は数多くなされてきた。自著の『わが闘争』(2005)にもこんな一節がある。<父からほめられたい、愛されたいという気持ちは強かったのだろうが、お互いの気持ちはすれ違うばかりで、その分憎しみも強くなったのかもしれない>
──『犬神家の一族』『人間の証明』など、これまでの製作物には、殺人も含め、家族間の愛憎を描くものが多いです。なぜ何度もテーマにするのですか。
いまでもテーマにするよ。近刊で出す本も、離婚した母親と暮らす5歳の男の子が、木曜だけ父親に預けられるという設定。そういう複雑な家族の話の中に、自分自身のことが反映されているなと感じるんだ。
──映画製作などに注力し始めるのは、創業者でもある父・角川源義を1975年に亡くされてからでした。
当時、博報堂の社長が私たち子ども3人を食事に招待して、「お父さんはいい時に亡くなった。生きていたら、角川(春樹)さんが父さんを追い出したか、角川さんが飛び出したでしょう」と言った。まさに、そうするつもりでした。
──過去には「子どもと親の絆も呪縛」「親子といえども、他人である」といった冷淡な発言をしています。いま家族についてどう思いますか。
あぁ、それは……。いまは、ちょっと違うね。子どもが20歳になるのはあと12年後。私は90歳だが、その時息子の成人式を見たいんだ。
──今日話していると、お子さんや奥様のことで頭がいっぱいのようです。いまの変化は、新しい家族に影響されているようですね。
あるよね。生きるか死ぬかで言えば、私はいつ死んでもいいという思いはある。『みをつくし料理帖』をヒットさせるなら、今日私が死ねばいい。そうすれば話題になるから、間違いなくヒットする。それくらい映画にかける気持ちはある。
だけど、じゃあ、なぜそんな思いになるかと言えば、家族に支えられてつくったのがこの映画だからじゃないかという気がする。そんな気持ちは過去にはなかった。表には全部出るわけじゃないけれど、家族という存在が自分の中にあって、いまがあるのかもしれないね。
角川書店を出された5年後、4度目の離婚も経て、銀座の古いビルの7畳一間、共同トイレという部屋に住んでいたことがある。「ほとんど素寒貧」という時期だったが、角川は「自炊したりして、これまでと全く違う生活を楽しんでいた」という。そんな強靭な前向きさに、家族という希望が加わった。2020年の角川春樹は80代を前にして、新しい自分の発見に向き合っているようだった。
角川春樹(かどかわ・はるき)
1942年、富山県生まれ。株式会社角川春樹事務所代表取締役社長。出版業のかたわら、1976年に『犬神家の一族』で映画界に進出。『人間の証明』『野性の証明』『復活の日』『Wの悲劇』『ぼくらの七日間戦争』『男たちの大和/YAMATO』『蒼き狼〜地果て海尽きるまで〜』など、70作を超える映画を製作。1982年、『汚れた英雄』で監督デビュー。監督作として『天と地と』『笑う警官』などがある。『みをつくし料理帖』は10月16日全国公開。
森健(もり・けん)
ジャーナリスト。1968年、東京都生まれ。早稲田大学卒業後、総合誌の専属記者などを経て独立。『「つなみ」の子どもたち』で2012年に第43回大宅壮一ノンフィクション賞受賞、『小倉昌男 祈りと経営』で2015年に第22回小学館ノンフィクション大賞、2017年に第48回大宅壮一ノンフィクション賞、ビジネス書大賞2017審査員特別賞受賞。