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岡本裕志

「診断がつくだけでありがたい」――内田篤人31歳、けがとの闘いと主将としての変化

2019/11/09(土) 09:51 配信

オリジナル

「“俺クラス”になったら、全治どれくらいって診断がつくだけでありがたい」――。そう内田篤人(31)は自嘲気味に語る。若くしてドイツの強豪シャルケでレギュラーの座をつかみ、日本代表でも右サイドバックで長く活躍した。しかし、2015年の右膝の手術で1年半もの間、戦列を離れ、その後もけがとの闘いを繰り返している。古巣の鹿島アントラーズに復帰して2年目の今季は、主将を務める。けがとの闘いと、主将としての心境の変化を聞いた。(文:了戒美子、撮影:岡本裕志/Yahoo!ニュース 特集編集部)

「全治どれくらいっていうことは、寝てれば治る」

今季開幕前、内田篤人は「“自滅”をしない」という目標を立てていた。

「昨季は“自滅”っていうかさ、接触とかじゃなくて自分で肉離れを起こしてしまうようなことが多かったから、今季はそれをなくしたいなと思ってて」

今年1月は、昨季限りで現役を退いた小笠原満男から主将の座を受け継いだ。主将としてチームに貢献するにはピッチに立ちプレーをすることが、何より重要だ。そのために、まずはピッチから離れないために自分でできること、接触プレー以外で肉離れなどのけがをしない体づくりをテーマとした。

比較的順調にシーズンはスタートした。開幕戦には間に合わなかったものの第2節から4試合連続で先発出場し、そのうちの2試合ではフル出場。だが、3月30日の第5節磐田戦で、相手選手との接触プレーで古傷の右膝を負傷した。

「もともと右膝は強くないから。『がしゃん』て来られたら『ぐにゃん』ていっちゃうからね。自滅じゃないので、しゃーないっちゃしゃーない」

擬音語を使って、冗談めかした。試合に出ている限り、接触プレーは避けられるものではないから、「しゃーない」と納得するほかはない。

この負傷後、「打撲だけど当たりどころが悪くて力が入らない」「復帰までは2週間くらい」などとメディア相手に説明していた。だが、約1カ月ほど練習できない日々が続く。4月が終わる頃、スパイクを履き全体練習に復帰したが、またすぐ離脱することになる。

「練習復帰して、またやった。右足を振り抜いたらもう1回いった」

次に試合に出場したのは、8月14日の天皇杯3回戦。4カ月半という長い期間、ピッチを離れることとなった。だが、さほど悲観はしなかった。

「今までの膝のけがとはレベルが違うから、全然気にならない。俺クラスになったら、全治どれくらいって診断がつくだけでありがたい。全治どれくらいっていうことは、寝てれば治るんだ、じゃあいいやって」

自分のけがの多さを自嘲気味に“俺クラス”と表現した。

内田の言う「今までの膝のけが」とは、15年6月に手術に至った右膝の負傷を指す。もとを正せば14年2月、当時所属していたドイツ1部・シャルケの一員としてハノーファー戦に出場。試合終了直前に右足大腿二頭筋腱断裂という大けがを負った。この時は温存療法を選択し、ワールドカップ(W杯)ブラジル大会に間に合わせたが右脚への負担は大きかった。

W杯直前の鹿児島合宿中に右膝に痛みが発生し、以降は耐えながら練習、試合に取り組むことになった。W杯後、シャルケでの新シーズンは痛みを抱えながらスタートさせたが、15年3月欧州チャンピオンズリーグ(CL)レアルマドリード戦を最後に戦線離脱。シーズン終了後、手術を選択した。

W杯ブラジル大会ギリシャ戦でボールをキープする内田篤人(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

術後のリハビリは1年半という長期間にわたった。その間リハビリ施設を複数回変えたり、様々な治療法にトライしたりするなど、復帰までは試行錯誤が続いた。先の見えなさに苦しんだこの時期に比べれば、確かに今年の負傷など気にならないと言えるレベルなのかもしれない。

当時のけがについて振り返る時、内田はいつでも明るい。淡々と前を向き割り切った様子で、時には笑いながら言う。

「手術を選択したのは自分。けがをしたのも自分だもん」

それでも今に至るまでの長期間、離脱と復帰を繰り返す様子を見ていると、今後コンスタントに活躍する日は来るのだろうかという不躾(ぶしつけ)な疑問が湧く。

「それはあるでしょ。けがしなくなることはあるよ。週2で試合をやれるようになる日も来るでしょ。羽田(憲司)さんが言ってた。あの人も3、4年試合やってないでしょ? けがをしないで練習を続けていくと、そのうちできるようになるから、それまでの辛抱だって言ってた」

鹿島で内田のチームメイトだった羽田氏は現役時代、原因不明の足首の痛みで01年後半から05年序盤まで戦線離脱。復帰後は、セレッソ大阪、神戸とチームを変えながら12年まで現役を続けた。先輩の事例を持ち出して語る内田の口調は少し強かった。

「今の自分ができる100%で」

この4月は「振り抜いた」ことで再び負傷したわけだから、練習に対し少し慎重になった。

「他の人から見たら『内田、流してるな』と思われるかもしれないけど、俺はこのけがの状態でこのくらいしかできないから、これが“今の自分の 100%”だよっていう練習をしようと思って。手を抜くという言葉はちょっと違うんだけどね。試合はやっぱり始まっちゃえばけがしてもいいやって感じでやっちゃうからさ」

そんな考えに至るにはちょっとした出来事があったそうだ。

「実は、ソガさん(曽ケ端準)に怒られたんだよね。なんかインタビューの記事で『練習では100%の力を出さないようにして、けがしないようにして試合を目指します』って言ったんだよね。すぐに『やべー。変なこと言っちゃったな』って思ったんだけど、記事が出た時くらいに、ぼそぼそっとソガさんが『若手も見てるんだぞ』って言ってきて。同じ、フルで練習ができないという意味合いでも『今、自分ができる100%でやる』って言ったほうがよくない?って言われて考え方を変えたんだよね」

曽ケ端準(右)と内田(左)。2018年 FIFAクラブW杯3位決定戦で(写真:ロイター/アフロ)

記事を目にした若手が、「練習では手を抜いても問題ない」と内田が発言したと勘違いするのでは、と記事を見て曽ケ端は注意をしたわけだ。チーム最年長の40歳。元日本代表GKの曽ケ端は、内田に苦言を呈すことのできる数少ない現役選手だ。

「言われるまでは、あーもう100%出しきる練習ができないんだなって思ってたんだけど、そうじゃなくて今自分ができる100%でやろうって思うことで、気分的に楽になったんだよね。そうするとね、不思議と体も動くんだよね」

「これしかできない」とネガティブに考えるのではなく、「現状でのベストを尽くす」とポジティブに表現を変えた。表現を変えただけではあるが、確実に内田は前を向けるようになった。曽ケ端の苦言に、内田は助けられた。

「なんだかんだね、いいこと言ってくれる先輩なんだよね。さすがです」

「若いやつらに来てほしいのに」

曽ケ端が言うように、主将の内田は若手から注目される存在だ。だが、欧州や世界での経験豊富な内田ではあるが、主将になるのは初めてのこと。プレーはもちろん精神的な支柱であり、時にはチームの顔としての役割を求められる。この役割を内田はどう果たそうとしているのか。

復帰1年目だった昨季は、内田がドイツでプレーしていた間、アントラーズを支えてきた仲間たちのやり方を尊重していたそうだ。

「昨季は、ヤス(遠藤康)とか(昌子)源というキャプテンマークを巻いて試合に出る選手がいたから、あいつらの引っ張り方もあるだろうし、俺はちょっと……と思ってた。今季は主将やってって言われたから、じゃあ遠慮なくやらせてもらいますっていう感じかな」

今季の内田はこれまでと明らかに変わった。ベンチに入った試合では、ピッチ内の味方を鼓舞し、戦う姿勢を示している。自身が途中出場のためにウォーミングアップ中でも、ライン際から指示を送り、熱くなりすぎて審判から注意を受けたこともある。大岩剛監督からは、とにかく思ったことや経験をチームに伝えてくれと言われている。だが、プレーが出来ないこともあるのに意見を口にすることにためらいがあった時期もあったそうだ。

「最初は俺も、練習も試合もしてない時に何かを言うなんて出来ないと思ってたんだけど、剛さんが『そうじゃないよ』って。ほんとはさ、全試合出て、ばんばん引っ張れたらいいけど、それができてないんでね。ちょっと俺の口数が多いなとは思うけど」

三竿健斗(左)らと言葉を交わす内田(写真:長田洋平/アフロスポーツ)

シーズンが進むとともに、試合中に熱く叫ぶ内田は見慣れたものになっていった。クールで少し斜に構えた以前の姿がうそのようだ。

「どういうキャプテンになろうとかは全然考えたことないし、周りにどう見られてもいいし。キャプテンマークを巻かせてもらってる時は頑張らないとなとは思うけど、それ以外は別に。だって、鼓舞できるタイプの選手いるからね。(クォン・)スンテやらレオ(シルバ)やら、ヤスとか(伊藤)翔とかさ」

仲間への信頼は厚く、自分ひとりで牽引役を背負う必要がないことは理解しながら主将を務めている。一方で、共に練習しながら、若手に対してはもどかしさを感じることがあると明かす。

「俺が若い時、って言ったらアレなんだけどさ。2人組になってキックの練習になったら本山(雅志)さんとか上手い人つかまえて『一緒にやってください』って言ってたの。だからね、俺、今2人組で練習ってなったら自分からは相手を探さないで誰かが来るのを待つんだけど、実際に来るのは遠藤か、土居(聖真)くらいなんだよね。若いやつらに来てほしいのに(笑)。今年海外に行った安部裕葵、鈴木優磨、安西幸輝とか、三竿健斗とかはさ、ガンガン来たわけ。そこらへんの違いがね、あるのかなって。同い年でボール蹴るほうが楽しいだろうけどね」

キャプテンマークをつけてピッチに立つ(写真:長田洋平/アフロスポーツ)

例えば18歳の選手と31歳の内田では一回り以上もの年の差があるのだから、遠慮がちになる若手の気持ちがわからないわけではない。それでも、話しかけてきてほしいと思っている。また、同じサイドバックでプレーする23歳の小池裕太を見て、若き日の自分を重ねてしまう。

「俺、鹿島に入って2年目とか3年目とかさ、優勝はしてたし試合にも出てたけど、あんまりボールを受けたくない時期があってさ。最近の(小池)裕太がその時の俺と、かぶって見えるんだよね。試合に出始めたばかりの若手は波もあるし、なんかうまくできてないなっていう時期が絶対来るんだよね」

09年11月、アジアカップ最終予選香港戦の際、内田は日本代表の岡田武史監督に呼ばれてこう言われたという。

「小野伸二も市川大祐も18歳から試合に出てる選手は必ずスランプに当たるけど、今のお前もだ。そういう時は同じポジションで、目標とする選手を見つけなさい。まねをしながら上手くなっていくから。お前は今、大事な分岐点にいるぞ」

2010 年W杯南アフリカ大会で岡田武史監督(右から2人目)に声をかけられる内田(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

だがアドバイスを鵜呑(うの)みにする若き内田ではなかった。

「俺はばかだから、好きな選手とか見つけないで頑張ろって思ってた。あはは。目標の選手とか見つけないで(このスランプを)乗り越えてやるって。あいつのいいところとこいつのいいところを合わせて俺だって思ってた」

翌年のW杯南アフリカ大会では、その岡田は内田をメンバーに選出こそしたが、試合出場はなしに終わった。W杯終了直後にシャルケへ移籍。環境の変化も利用してスランプを脱した。小池にも、自力で何かをつかんでほしいと願っている。

「活躍したいというよりは優勝したい」

今季Jリーグも残り4試合となった。鹿島は現在首位に立ち、天皇杯でも準決勝に進出、2冠の可能性を残す。内田自身はようやく、9月に1試合、10月に2試合、スタメン出場したところ。まだ万全のパフォーマンスとは言い難いが、それは時間が解決するだろう。ここにきてチームには主力に負傷者が相次いでいるが、内田はタイトルへの自信を見せる。

「ベンチにはもったいないくらいの選手がいるから。うちは、監督がローテーションでチョイスできるようにタイプの違う選手たちが、2チーム分いると思ってる。だから、けが人がいても選手が不足してるとは思わない。出てなかった選手にはチャンスでしょ」

内田自身は、シャルケで活躍していた頃とはまた違った心境で戦っている。

「シャルケ時代のほうが自分がよければそれでいいって思ってたよ。鹿島に来て鹿島を勝たせたい、チームみんなでやらなきゃっていう気持ちのほうが強いな。活躍したいというよりは優勝したい。それに、やっぱり剛さんが監督だから。剛さんを勝たせたいという気持ちが強いよね」

22歳だった内田は、鹿島での実績を一旦捨て、戻る場所などないという覚悟を決めてシャルケでの一歩を踏み出した。欧州では日常的に移籍報道が流れ、試合中のちょっとしたワンプレーであっという間に評価が上下する。選手の移籍も頻繁で、アジア人の自分の代わりなどいくらでもいる厳しい勝負の世界。内田は個人のパフォーマンスにフォーカスし、戦い続けた。

その結果、シャルケに7シーズンにわたり在籍、愛される選手になった。だが、復帰した鹿島では自分のことだけを考えているわけにはいかない。年齢も重ね主将となっただけでなく、その豊富な欧州での経験を還元することも求められる。自然と優先順位も、自分自身からチーム、仲間へとシフトした。17年から指揮をとる大岩も、内田にとっては単に監督というわけではない。内田が鹿島に入団してからシャルケに移籍するまでの4シーズン半、共にプレーした仲間なのだ。

「今季はクラブとしてリーグ戦のタイトルが一番大事。残り4試合、最後までもつれるだろうけど残り2試合くらいになった時にどの順位にいるか、だね」

優勝争いが佳境に入った時に、内田はどこでその戦いに加わるのか。スタンドでも、ベンチでもなく、ピッチに立って戦っていたい。いざという時にフルパワーで貢献できるように。今はまだ淡々と戦況を見つめ、その時を待っている。


了戒美子(りょうかい・よしこ)
1975年生まれ。98年、日本女子大学文学部史学科卒。映像制作会社勤務を経て2003年から執筆活動を開始。11年3月11日からドイツ・デュッセルドルフを拠点として欧州サッカーをメインにスポーツ全般を取材。「スポルティーバ」(集英社)、「ナンバー」「ナンバーウェブ」(文藝春秋)などに寄稿している。近著に『内田篤人 悲痛と希望の3144日』(講談社)。

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