走ることは、「かけっこの延長」だと桐生祥秀は言う。
かけっこが大人になって陸上になり、仕事になっただけだと。
2年前、9秒98という日本選手史上初の9秒台を出し、日本の陸上短距離界を引っ張る存在に成長した。
仕事は、今や桐生の生き様そのものになっている。
10秒の世界で戦う男の思考は、自由で斬新でプロフェッショナルだ。(取材・文:佐藤俊/撮影:ヤナガワゴーッ!/Yahoo!ニュース 特集編集部)
桐生のヒーロー像
「僕は、子供たちに『桐生祥秀みたいになりたい』って思ってもらえたら嬉しいです」
単なる有名選手ではなく、イチローやカズなどその世界で突出し、あらゆる世代、とりわけ子供たちに影響を与えられる選手。
それが桐生のヒーロー像だ。
「そのためにはトップにい続けないといけない。陸上って速く走ることに価値があり、それが職業になっているんで、トップにいないと意味がないんですよ。それがファンの方々やスポンサーへの恩返しにもなるんで」
桐生は東洋大学4年生だった2年前、9秒98で100mを駆け抜けた。
高校3年に10秒01を出し、0.03秒縮め、日本史上初の9秒台を出すまで4年費やしたが、「9秒98」と「日本最速の男」という称号のインパクトは大きかった。
「日本で最初に9秒台を出す。その目標をクリアしたことで、『プロ選手』という景色が見えてきた。自分に価値がないとスポンサーがつかないので、そういう面で9秒98は自分の価値を高めることができたかなと思います」
2018年4月、日本生命所属になり、マネジメント会社が決定し、陸上の「プロ選手」になった。メディアに取り上げられる機会も増え、より「プロ」を意識するようになった。
「大学のときとだいぶ意識が変わりました。大学生とは違い、大学生は結果が出なくても生活できるけど、プロは結果を出していかないといけない。そういう自覚が芽生えたし、結果に対するモチベーションはすごく上がりました」
プロ2年目だが、その言葉には強いプロ意識と短距離界の第一人者としてのプライドが感じられる。今後も選手として陸上界を引っ張り、いずれ指導者や解説者など引き続き陸上界に携わる仕事をしていくのだろうと勝手に想像してしまう。
だが、桐生は、「それはわからない」と笑う。
「僕は自分が走るのが好きなんです。だから、走れなくなっても陸上の世界にい続けるかどうかはあまり考えていない。次にやりがいを感じる面白い仕事が見つかれば、そっちを考える。そのほうが人生楽しいじゃないですか。同級生はもう社会に出て2年目でバリバリ仕事している。僕もいろんなことができるようになりたいっていうのはあります」
陸上の練習時間は2、3時間で終わる。それ以外の時間を同級生や陸上仲間と食事をしたり、陸上教室をしたり、何か他に面白いことがないか、考えている。100mは10秒足らずで終わるが、桐生が考える時間は止まらない。
色々試した2018年
プロ1年目の昨年、桐生は10秒10がシーズンベストだった。期待が大きかっただけに少し物足りない結果だった。
だが、「あまり気にしてない」と桐生は言う。
2019年はカタール・ドーハで世界陸上があり、2020年には東京五輪がある。この2年間はフルパワーで突っ走ることになる。自分のために時間を使い、これまでできなかったことにトライするのは、2018年しかなかったのだ。
「いろいろ試しましたね。例えば腕を思い切り振ってレースで走ってみようとか。それで、いいときもあれば、めちゃくちゃ腕が上がってダメなときもあった。でも、そういうことができたのは、9秒98があったから。結果を出したことで自由にやれた。そこにちょっと甘えもあったのかなって思いますけど」
レースでの結果はもうひとつだったが、試したことによる収穫は大きかった。
雌伏の1年を経たプロ2年目の今シーズン、桐生は新たな動きを見せた。
まず、ウェートトレーニングのクリーンを取り入れた。
「地面で足腰を強く押して重りを持ち上げるトレーニングです。力を使わずに一発で上げるということを意識して取り入れて、それができるようになったし、これまで最高で100kgだったのが135kgまで上がるようになった」
走りに如実に現れたトレーニング
クリーンの狙いは接地する1歩に力を伝わりやすくして、スピードを高めるところにある。週2、3回程度行い、試合前にも取り入れるようにした。
通常の練習では、100m、80m、60mの坂ダッシュのほか、芝の上を200mゆっくり走ったり、ジャンプ系で上に跳んだり、前に跳んだりするなど、豊富なメニューをこなした。
こうしたトレーニング効果は、走りに如実に表れた。
「走っていてスカさなくなりました」
接地の1歩、1歩に力が伝わりやすくなった。
「100mは47、48歩でゴールなんで、1歩もムダにできないんですよ」
以前は走っていて横に流れることがあったが、ブレずに直線コースを走り切れるようになった。また、スタートから30mまでは力を使わずに走り、後半に伸びる走りを実現した。練習でも試合でも同じレベルのパフォーマンスを再現できるようになった。
「これらは今年、成長した部分ですね」
体、技とくれば最後は心である。
「僕、レースで緊張しないときがあるんですよ。そういうときって結果が出ないんですよ。強い選手が横にいるとアドレナリンが出て、勝負しようという気持ちが高まるんですけどね。だから今は、自分自身で緊張感を高めてレースに臨むようにしています」
勝負の2020年シーズンに向けて、心技体が整った。
新たな取り組みが功を奏し、今シーズンの出足は上々だった。
サニブラウンとの比較に何を思う
シーズン初戦となった3月の豪州でのレースは10秒08を出し、昨年のシーズンベスト(10秒10)をいきなり超えた。続くアジア選手権は10秒10で優勝。セイコーゴールデングランプリではジャスティン・ガトリンと最後まで競り合い、0.01秒差の2位になった。
桐生は調子を上げてきたが、一方でライバルも成長を見せた。
6月、サニブラウン・ハキーム(フロリダ大)が9秒97を出して桐生の持つ日本記録を破ったのだ。
「記録を破られてうれしくはないけど、また更新すればいいこと。次、どんなインパクトを残してやろうって考えていました。ライバルが出てくるのは自分にとっていいことでしかないし、ワクワクする。それで陸上界が盛り上がるのはいいことですよ」
桐生とサニブラウンの「9秒対決」に注目が集まった日本選手権。桐生はサニブラウンに0.14秒差の10秒16で2位に終わった。
桐生は喜怒哀楽の感情を表に出すタイプ。悔しさを爆発させるのかと思いきや、その反応は予想外のものだった。「後半の爆発力はサニブラウンが一番」と完敗を認めたが、「今後も自分の走りを追求するだけ」と至って冷静だったのだ。
「いろいろストライドとか歩数とか比較されるけど体が違うんでね。サニブラウンは2m50以上のストライドがあるけど、自分はそれじゃ絶対に走れない。47歩でも50歩でも一番速く走った選手が陸上では強いんで、数値に振り回されたくないんですよ」
桐生は176cm69kgだが、選手はそれぞれ身長も体重も異なり、足の長さも違う。単純に数値化されただけのデータを比較しても意味がないのだ。
「僕は自分の走りの映像は見ますけど、他の選手のは見ない。僕の中には、これが自分の走りだというものがあるし、それを貫いていくと決めているんです。誰かのマネをして後悔するのはイヤだし、自分の突き進む道をいけば後悔なく陸上人生を歩める。そうして今まで結果を出して応援してもらっている。それでいいかなって。アスリートのわがままが通るのは現役をやっている間しかないんで」
2020年、東京五輪を見据えて
自分らしさを貫く――桐生の素が見えたシーンがあった。
日本選手権前は、ライバルたちと比較され、メディアに煽られた。そんなとき、桐生はテレビにもかかわらず、不機嫌な表情をあらわにした。
「ライバルと比較されてニコニコするのも違うじゃないですか」
自分と他の選手を比較しても意味がないという考えにブレはない。
まもなくドーハ世界選手権が開幕し、来年はいよいよ東京五輪だ。
「僕の目標は、100mで世界選手権、東京五輪でファイナリストになって勝負すること。9秒98を出してからは、それを目指しています」
桐生にはもうひとつ目標がある。
「陸上をメジャーにして、プロスポーツとして成り立たせるようにしたい。野球やサッカーは自分の力で稼いでいけるんで夢があるじゃないですか。僕は、そういう夢ってすごく大事だと思うんですよ」
競技力だけではなく、生活、スタイルも含めて子供たちはプロに憧れる。
プロは、その夢が見られるステージだ。
世界の大きな舞台で結果を出せば、人生が変わる。
「東京五輪は、そういう場ですね。メダルを取れば、何かが変わると思う。今、陸上が子供の好きなスポーツの上位になってきた。今までそんなことなかったけど、陸上に対する見方が変わってきている。チャンスなんで、五輪で結果を出して、桐生祥秀のようになりたいって言ってもらえるような選手になる。そうして、100mのスペシャリストを増やしていく。それができたら最高ですね」
果たして、東京五輪でヒーロー見参と成り得るか――。
その夢を実現するために100mレーンを走る努力が、つづく。