「なんでもかんでも東京だったし、悔しさがあった」と北海道出身の大泉洋(46)は言う。「もっと人が多いところに行けば、いい出会いがあるんじゃないかと思っていた」と徳島県出身の米津玄師(28)も語る。地方で育ち、上京して第一線で活躍する2人にとって「地方と東京」はどう映っているのか。世代の違う2人の共通点とは。対談で熱い思いを吐露した。(取材・文:長瀬千雅/撮影:堀越照雄/Yahoo!ニュース 特集編集部)
(文中敬称略)
インターネットの中に救いを求めて
北海道発で全国区の人気番組になったバラエティー「水曜どうでしょう」をはじめ、数々のドラマや映画に出演して、お茶の間に浸透している大泉洋。片や、2018年のシングル「Lemon」がデジタルダウンロードとCD合わせて300万セールスを記録するなど、広く知れ渡る楽曲を送り出しながら、テレビ出演はほとんどない米津玄師。ジャンルは異なるが、日本のポップカルチャーを背負って立つ2人だ。
大泉 いま、28歳でしょう?
米津 そうです。
大泉 「水曜どうでしょう」のレギュラー放送が終わったのが28、29歳だから、いまの米津さんくらいの年だったんだな。北海道でずっと仕事ができればいいと思ってたんです。野心がなかったから。だけど、30歳手前になって、漠然とした不安に襲われました。「この先、どうすればいいんだろう」って。北海道では有名になったけど、「北海道の人たちは、僕が北海道にいるから応援してくれているわけじゃないよな」と考えたときに、このままでいいのかなと思ったんですよ。
少し閉塞感もあったんですよね。飽き性でもあるので、毎日毎日、違うバラエティーに行ってロケしてるだけの生活に、「ちょっとつまらないなあ」と思った時期があって。それで「お芝居をちゃんとやりたいな」と思い始めた。
米津 僕は、18歳まで徳島で育って、大阪に出ました。徳島にいたころは全然なじめなくて、「自分のことをちゃんと分かってくれる人がいるところに行きたい」という気持ちがすごく強くありました。「もっと人が多いところに行けば、いい出会いがあるんじゃないかな」と。それは昔の話で、自分がうだうだしてたのを責任転嫁してただけなんですけど。
大泉 「自分のことを分かってくれる人がいるんじゃないか」というのは、音楽的な才能という意味ですか? それとももうちょっと違う感じなの?
米津 音楽的なことだったと思います。
大泉 じゃあ、10代のころからもう音楽はなさってたんですね。
米津 音楽を始めたのは中学生のときです。でも、話が合う人間が全然いなかったんですね。好きな音楽の話をしたいけどできないっていう状況で、インターネットの中に救いを求めていたんです。インターネットは、すごく遠いところから手を伸ばしてくれる人とつながれるから。大阪で1年ちょっと過ごしたあと、そこに近づけるかなと思って、東京に出てきました。でも、来たところであんまり変わらなかったなと思います。
東京でライブに行ったりもするんです。生身のミュージシャンが奏でる生の音の美しさはすごく分かる。でも「家で一人で聞きたい」と思ってしまう。小学生のころからずっとインターネットを見て育ってきたから、画面の中で完結するものが音楽だと、俺は思ってたんです。
大泉 へえ〜っ。
米津 どこまで行っても自分の体には、地域性みたいなものは根付かないんだなって、東京に出てきて初めて分かりました。
大泉 それはやっぱり、世代の差だなと思いますね。僕は「東京に出たい」とは思わなかったタイプだけど、僕らの世代は「東京に出るしかない」という人が圧倒的に多かった世代だから。なんでもかんでも東京だったし。舞台公演が北海道に来てくれないとか、人気番組が北海道では見られないとかね。そういう悔しさはあった。「水曜どうでしょう」は北海道に来ないと見られない時期がずいぶんあったんだけど、そのときはちょっとした痛快さはありました。でも、これだけインターネットの時代になると、いまの若い人たちは「東京にしかないものって、何かあるの?」って感じだよね。
その人の人生だから、どっちがいいってこともないんだけど、東京のど真ん中で生まれ育つと、田舎の、自然の中で暮らす生活は知らずに育つわけだからね。東京って、そこに仕事があるとか、何かやりたいことがあると思って来てる人が多いなかで、何かやってないと置いてきぼり感を抱いてしまう。「やばいやばい、何かしなきゃ、何か結果を残さなきゃ」って思う街なんだよね。それが疲れるとは思う。いまでも、新千歳空港に着いた瞬間に落ち着くっていうのかな。人だけじゃなく、車も若干ゆっくりな気がする。本当は北海道の人のほうが飛ばしてるんだけどね。土地がでかいから(笑)。
米津 (笑)。
大泉 地元を出てから、地元の良さが分かるよね。
米津 そうですね。
大泉 僕も東京で仕事をするようになってから「北海道のどこが好きなんですか」と散々聞かれて。そのころはいつも「いや、好きっていうか、生まれた場所だから」と言ってたんだけど。何年か経って、やっぱり北海道が好きなんだなって分かってきた。生まれただけなんですけどね。
米津 そこから逃れられない。
大泉 そう。それこそ、昨年末の「紅白歌合戦」で大塚国際美術館(徳島県鳴門市)からライブ中継されたのを見て、ああ、すごく好きなんだなと思いましたよ。
米津 祖父母の家が本当に大好きで。山奥にあったんですけど。そこで感じてたことが、音楽をつくる上でめちゃくちゃ重要だったなというのはすごく思います。その感謝みたいなものは、還元したいと思いますね。
「一回やってみよう精神」
大泉が本格的に東京で仕事をし始めたのは2004年。翌年、ドラマ「救命病棟24時」で全国放送の連続ドラマに初出演。2002年にレギュラー放送が終了した「水曜どうでしょう」は、続々と各地の放送局で放送されるようになっていて、少年時代の米津も深夜のテレビで、体当たりの旅をする大泉の姿を見ていた。
大泉 マネージャーに「『救命病棟24時』が決まりました! おめでとうございます!」と言われた瞬間に、うれしいんだけど、内心「まじか!」っていう。東京でお仕事はしたいんだけど、なまじっか北海道で有名になった分、全国区でも、もしかして売れるかもしれないことに対する怖さがありましたね。
米津 自分も面倒くさいことは最近増えてきましたけど、環境が変わることによって自分がつくり変えられていくことを肯定したいなとずっと思ってて。変わっていきたいんですよね、ずっと。どんどんポップなものになっていったときに、自分がどういう曲をつくるんだろうという興味がすごく強くあります。
大泉 それこそさ、「パプリカ」という曲をつくったじゃないですか? あれは最初から「子どもの曲をつくる」ということでつくり始めたんですか?
米津 NHKから「2020年に向けての応援ソング」で、「子どもが歌って踊れるものを」というオーダーがあったんです。それで、じゃあ誰が歌うのかと考えたら、もう頭のなかで子どもが歌ってました。子どもの声で流れてきたものは、子どもたちが「これは自分たちのためのものだな」と思うから。
大泉 なるほど~。うちの娘も歌ってるわ。風呂場で絶唱してる(笑)。
米津 あ、ほんとですか(笑)。俺は子どもと接する機会が全くなかったので、自分の記憶をたぐり寄せるしかなくて。徳島の山の中で遊んだりしてたんですけど、「こういうことあったな。こういうの好きだったよな」みたいなことを考えながらつくりました。
大泉 子どもと接点がなければ「無理です」って断る選択もあるわけじゃないですか。断ろうとは思わなかった?
米津 やったことがないことをやりたいんですよね。「一回やってみよう精神」というか。大泉さんの飽き性と近いのかもしれないんですけど、新しいことというか、自分のなかで変なことをやっていたい。
美しい芯を持った人間の振る舞い
共に飽き性だと言う2人。話題は「これから新しく始めたいこと」に移った。
大泉 なんでしょうね。最近は、じわじわとですけど、「監督したい」と思うかもしれない。
米津 ああ、ほんとですか。
大泉 (映画・ドラマ監督の)福田雄一さんとの出会いがでかかった。このあいだまで「新解釈・三國志」という映画の撮影をしていて。語弊があるかもしれないけど、福田雄一さんの現場に行くと誰でも監督ができると勘違いしてしまいますね。(笑)
米津 へえ~。
大泉 潔いんですよ。福田さんは。「俺は笑いにしか興味がないから、そこは俺がやるけど、他は基本お任せ」みたいな感じなんです。監督やるとなったら、カット割りしなきゃいけないと思うじゃない? でもシーンによっては「カメラさんがやって」と言えちゃうんです。「だってそれをやるためにカメラマンになったんでしょ」という考え方なんですよね。もちろん、器がでかいからできることなんでしょうけど。
僕の場合はお芝居に興味があるから、ちょっとしたせりふの間(ま)だったり、そういうところは自分で演出をつけたいんだけど、撮ることは本職に任せる。そういう監督だったらできるなと思って。まあ、生来の面倒くさがりやだから、やらないでしょうけど。
米津 やってほしいです。俺はいろいろありますけど、そもそも漫画家になりたかったから。
大泉 絵がね、すごいもんね。
米津 音楽を志すまではずっと漫画家になりたくて、「『週刊少年ジャンプ』で連載したい」というのが夢だったんですけど……。気がついたら音楽やってて、それがやりたくてもやれなかったこととしてずっとあるから、いつかやれたらと思ったりします。
大泉さんも歌を歌われてますが、菅田将暉くんと曲をつくったときに、彼が本当に、彼にしか出せない声を出してきたんです。なんだろうな、演技と歌のハイブリッド感というか。ひとつ美しい芯を持った人間はどこに行ってもそれに準じて振る舞うことができる、その美しさってなんなんだろうということに対する興味がものすごくあって。
大泉 「馬と鹿」のミュージックビデオを拝見したけど、あの映像のなかの米津さんは役者だと思いましたよ。歌の世界ではあるけれど、群衆の手がうわーっと伸びてくるなかで、感情をもって何かを伝えようとしているわけじゃないですか。それはまさに演技だよなと思います。
何もしない時間が無駄じゃない
2人が初めて会ったのは、2019年2月のことだ。札幌市のライブ会場を大泉が訪れた。その後、大泉の主演ドラマ「ノーサイド・ゲーム」の主題歌を米津が担当することが決まった。そして、今回の対談が実現した。
大泉 主題歌が米津さんだと聞いたときは、「プロデューサー、よくやった!」と思いました。勝手な印象だけど、ドラマをすごく理解した上で書いてくれる人なんじゃないかっていう気がしたので。疲れ切ってるときでもこの曲を流すと、車窓から見える全てがドラマチックに見えてくるんだよね。工事現場の人も、サラリーマンも、「みんな戦ってるな」っていうふうに見えるんです。
(ドラマの)「君嶋隼人」というキャラクターを、僕がかたちづくるわけだけども、私服のままで行ってやれるかといったら、やれないわけです。メイクしてもらって衣装着せてもらって、撮影現場に立たせてもらって初めて見えてくるものがあるし、炎天下で延々とお芝居をしてくれるアストロズのメンバーを見て気持ちが入っていく。そのなかに米津さんがつくってくれたあの曲もあります。
米津 すごい、うれしいです。スポーツの美しさと、大泉さん演じる君嶋の役をかけ合わせながらイメージを広げていきました。1話の脚本を読ませてもらったんですけど、自分は社会人になったことも、左遷されたこともない。何を取っ掛かりにすれば良いのか悩んだんですけど、ラグビーの試合を見たら、それがめちゃくちゃ美しくて。その尊さをもとにつくっていったんですけど、テーマ曲をつくるときに心掛けているのは、作品に寄りすぎないようにしているんですね。
大泉 やっぱりね、「トライ!」とか言うと安くなっちゃいますからね(笑)。
米津 そうそう、そのちょうどいいポイントがどこにあるんだろうなと考えていたらものすごく悩んでしまって、けっこう時間がかかりました。
大泉 曲をつくるときは、常に締め切りがあるものなんですか? 例えば歌詞は、長い時間かけてじわじわとできてくるのか、「もうダメだ!」となって一気に書き上げるのか。
米津 俺は後者が多いです。計画的にものをつくるのが苦手で。ずーっと何日もひたすら曲をつくってて、飽きたら1週間ぐらい何もしないみたいな。ずっとそんな繰り返しで、デッドラインが近づいていよいよマジでヤバイってなると、よく分からない力がぐわっと出て、ものすごくいいものができるという。
大泉 これね、僕とつくり方似てますよ(笑)。何もしない時間が無駄じゃないんですよね。
米津 そう、無駄じゃないんです。
大泉 結局1週間でつくったとしても、その前に何カ月間かうだうだしてる時間がないとできないんですよね。
米津 部屋の掃除とかしたりして。
大泉 分かる! 僕も劇団に舞台の脚本を書いたりしてたけど、書けないんですよ。とにかく書けない。でね、「ちょっとヒントがあるかもしれない」って1回テレビつけたりして。「何かに出合うかもしれない」とか言いながらね。そんなふうだから、何も考えなくていいときって、すごくハッピーじゃないですか?
米津 ハッピー。本当にハッピーです。
大泉 そんなときは普段見られないDVDを見ます。『24 -TWENTY FOUR-』が大好きなんですけど、最後のシリーズを見ないでとっておいてあるんです。俺の人生からジャック・バウアーがいなくなるのが怖いから。
米津 それすごく分かります。俺もRPGのゲームやってて、もうそろそろ終わるなと思ったらすごい寂しくなってやめちゃうんです。好きなゲームであればあるほど、やめちゃうんですよねえ。
大泉 「俺にはまだこいつがある」って思えるからね。いや、僕、米津玄師と親友になれるな。ふふふふ。