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サッカー日本代表を支える「なんでも屋」――裏方に徹するキットマネジャーという仕事

2018/10/20(土) 07:31 配信

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サッカー日本代表の試合当日――。ホテルを出発する前、ユニホームや練習道具などを確認する。試合が始まる3時間前にはスタジアムに入り、準備をする。試合が終わるといち早く荷物をトラックなどに運び、ロッカールームを去る。勝利した喜びに浸ることも、選手と感動を分かち合うこともない。気持ちを切り替えて、すぐに移動し、次の仕事に取りかかる。日の当たらない仕事だ。だが、麻生英雄(43)は楽しそうに、その仕事を21年間続けている。(ライター・佐藤俊 撮影・ヤナガワゴーッ!/Yahoo!ニュース 特集編集部)

裏方に徹する「なんでも屋」

麻生英雄が務める「キットマネジャー」は、サッカー日本代表が練習・試合をするうえでの道具を用意・管理するのが主な仕事だ。一言でいうと裏方に徹する「なんでも屋」である。日本代表のスケジュールが出ると麻生は、コンビを組む山根威信とともに合宿がスタートする数日前に倉庫に行き、ウェアなどをそろえる準備をする。練習着は選手個別に用意するのではなく、使い回しなので人数に合わせて各サイズを用意していく。海外の場合は、さらに大変だ。

「ロシアW杯ではキャンプ地のオーストリアの標高が高く、寒かったので冬用のベンチコートや手袋など、フル装備を用意していきました。海外は事前に天候などをチェックしますが、正直、行ってみないと分からない。基本的にはどんな状況にも対応できるように準備していきます」

チームに合流しても仕事は山積みだ。
麻生は常に仕事用のリュックを背負っている。中には、必須道具のごみ袋、粘着テープ、黒のマジック、ペンチ、カウンター(数取り器)が入っている。

「ごみ袋は洗濯物を入れたり、雨が降ってきたとき濡れてはいけない道具をカバーしたりするのに使えるし、マジックは洗濯物を仕分ける際に袋に書いたり、選手がサインしたりするのに使用します。ペンチはスパイクの底のポイントを回すため。カウンターが必要なのは荷物が多いから。国内でも250個近く、海外だと350個ぐらいになります。それを空港で1個1個預け、受け取るときも1個1個出てくるので、カウンターでカチカチと数えています」
遠征先のホテルではベッドなしの部屋を1室設け、用具部屋をつくる。長机の上にサイズ別に練習着を並べ、選手は練習前にそこに来て、自分に必要なウェアを持っていく。

練習後は使用された練習着を持って、コインランドリーに直行だ。

「代表の試合が行われる場所は全国でも限られているのでだいたいコインランドリーがある場所は把握しています。盗まれたらいけないので、洗濯し終わるまでそこで待機です」

洗濯を終えるとウェアを畳んで、用具部屋に並べ、翌日の練習に備える。

ユニホームは、試合ごとにシャツ、パンツ各2枚ずつをワンセットで準備する。ウェアにも選手の好みが分かれる。カズ(三浦知良)はどんなときも半袖、柏木陽介は長袖を使用し、西沢明訓は襟を立てるのがトレードマークになっていた。海外遠征時は予備の背番号と名前のシートを持っていき、急なメンバー変更などの不測の事態に対応できるようにしている。ちなみにスパイクは1998年のW杯大会後、選手が自己管理するようになった。

サッカー経験ゼロからのスタート

今でこそテキパキと動き、監督や選手の要望にも素早く応えられているが、もともとサッカーの経験はゼロ。キットマネジャーに就くきっかけは、1994年、大学受験の浪人中に手にとったアルバイト求人誌だった。パラパラとめくっていると横浜フリューゲルスがアシスタントマネジャーを募集していた。勤務先が横浜で実家の小田原から近く、関心を持ち、受けたらまさかの採用になった。浪人中だったが、Jリーグのチームで仕事ができる喜びと仕事内容に面白さが感じられたので大学受験をあっさりとやめた。そして、翌年春、新入団選手の楢崎正剛、吉田孝行らとともに入寮した。

駆け出しのころは慣れない仕事のうえにサッカー未経験者なので失敗も多かった。選手に「インナー取って」と言われ、「インナーって何ですか?」と聞き返し、呆れられた。選手に「スパイクのポイントを替えて」と頼まれたが、2種類あるのを知らずに付け間違え、「これ、逆じゃねーか」と怒られた。紅白戦で副審を任されるとオフサイドなどの判定が怪しく、選手に怒鳴られた。

監督の要求に戸惑うこともあった。前日にボールを使用しない練習と確認したが翌日、「ボールが必要」と言われ、用意していないと「うちは陸上部じゃないぞ!!」と怒鳴られ、慌てて用意した。

「世界中を遠征して、いろんな経験をして今は多少のことでは動じなくなりました」

フリューゲルスでは、試合日以外は早朝から夜まで、ボール拾いからスパイク磨き、練習着とユニホームの準備、洗濯まであらゆる仕事をこなした。試合のときは名古屋までの距離なら一人で荷物車を運転し、ユニホームや道具を運んだ。名古屋でのナイトゲームが終わり、横浜に戻るのはいつも深夜2時ごろだったという。

そんな姿が代表スタッフの目に留まり、95年、デサントアディダスマッチで初めて日本代表のスタッフに入った。翌年、キリンカップのユーゴスラビア戦のときはキットスタッフとして仕事をした。わずか2回の単発的な仕事だったが、その仕事ぶりが評価され、97年からは日本代表のスタッフとして仕事をすることになる。

「自分も海外に行くしか」

麻生のような縁の下の力持ちの存在がなければ代表の試合スケジュールは円滑に進まない。非常に責任の重い仕事だが、それゆえに自己管理は徹底している。

「選手を支える人間が先に倒れてはいけませんので普段から体調管理をして、けがにも気をつけています。病気やけがをして遠征に行けなくなるとスタッフから外されてしまいます」。チームのために自制した生活を送っている。それに不自由さを感じないのかと問うと、麻生はこう言った。「ずっと続けていきたいけど、やりたいからといってやらせてもらえる仕事じゃない。チームに必要とされるためには、ある程度のことを制限するのは仕方ないですし、別に不自由さも感じないです」

そう語る麻生、過去には仕事について悩む時もあった。2006年ドイツW杯でのことである。

ジーコが率いる日本代表は中田英寿、中村俊輔らと、稲本潤一や小野伸二ら“黄金世代”が融合した史上最強と言われたチームだった。しかし、1勝もできず、グループリーグで敗退した。

「あんなにすごいメンバーがいても勝てなかった。ショックでしたね。そのとき、僕らスタッフはどうしたらいいのかって考えたんです。当時、中田(英寿)や俊輔(中村)、イナ(稲本潤一)とか海外組が増えてきたけど、スタッフは海外経験がなかった。これは自分も海外に行くしかないと……」

麻生は、一大決心をする。

フランスW杯後の99年4月、アディダスが日本代表のユニホームのオフィシャルサプライヤーになったのを契機に麻生もアディダスの社員になって代表を支えてきたが、退社した。07年4月、中田浩二のいるスイスに飛び、選手のサポート役に回った。道具とは関係ないが海外組の選手が現地でどんな生活をし、どんなストレスを抱えてプレーしているのかを知りたかったという。

「浩二は通訳なしで一人で頑張っていた。そういう姿を見られて勉強になったし、見聞を広げ、人間的にも成長できたので行ってよかった。僕の人生のターニングポイントのひとつになりました」

衝撃のベルギー戦後もすぐ帰りの準備

ロシアW杯では、日本代表は大会直前に西野朗に監督が交代するという“事件”がありながらベスト16という結果を残した。劇的な試合が多かったが、麻生は1試合もピッチで見ることができなかった。

「ロッカールームにテレビがあるんですが、選手が試合に出ていくとロッカーを整理し、ハーフタイムの準備をして、後半は帰る支度をしつつ、トラックに荷物を運んでいたので、その合間に見ている感じです。たまに『ワー』って歓声が聞こえてくると反射的にテレビを見ますけどね」

世界の勝負強さを痛感させられた決勝トーナメントのベルギー戦、麻生は何を思ったのか。2-2での場面を鮮明に覚えているという。「これは延長戦になる」と思い、タオルを用意してピッチ際まで出ていった。その矢先、ベルギーの衝撃的なカウンターを、目の当たりにした。

「あのベルギーのカウンターはすごかった。“これがW杯かぁ”って思いました。負けた瞬間は感傷に浸りますが、落ち込んではいられない。僕はすぐに切り替えて、荷物をトラックに入れながらベースキャンプ地の荷物の整理などを頭の中で始めていました」

麻生は試合後のムードに流されることも選手のように一喜一憂することもなく、自分の仕事を手際よく、効率よくこなしていく。

「僕の仕事は、チームの予定がスムーズに流れていくために準備すること。そのために常に先を見て、考えることをいつも心がけています」

麻生はアディダスを退社した時に、クラブやJFA(日本サッカー協会)やJリーグにサッカー関連の人材を派遣し、キットマネジャーを始めとするスタッフを育成するボトムアップという会社を仲間と立ち上げた。今では社員が11人になり、日本サッカー界に人材を派遣し、発展に貢献している。

「僕はサッカー界に求人誌で入り、一から学び、成長させてもらった人間です。サッカーに対して熱意があるのに、きっかけをつかめない若い人のために少しでもチャンスをつくれたらと思っています。もちろん後進の育成も、です。そうしてサッカー界に少しでも恩返ししていきたいです」

9月、森保一監督が率いる日本代表がスタートした。

麻生は、フランス大会から7大会連続のW杯出場に挑戦することになる。達成すればスタッフで唯一になるが、仕事は変わらない。紅白戦や練習のとき、メディアやファンは選手の動きを見ているが、麻生の視線はピッチ脇でボールの行方だけを追っている。

「見ているのは道具だけ。紅白戦とかシュート練習でボールが遠くに行くとどこに行ったのか、そっちばかり気になるんですよ」

日本代表の“仕事人”は、練習を見ながらもう次を考えている。


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