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「表現の自由」は平等か?――メディアがミスリードする「ヘイト規制論」の二項対立と人種差別撤廃法案

韓東賢日本映画大学教員(社会学)
2日の院内集会では野党の国会議員らが人種差別撤廃基本法の早期成立を訴えた。

路上でのヘイトスピーチに象徴される排外主義の高まりを受け、2013年3月に初めて国会議員有志が主催する院内集会が開かれたのを皮切りに、日本が1995年に加入した国連・人種差別撤廃条約が求める義務でもあり、民族差別、外国人差別に反対する人々の念願でもあった人種差別撤廃法制定への本格的な動きがようやく始まった。2014年には野党議員らによる議員連盟が結成され、与党内でも議論がされるようになり、今年5月、ついに民主、社民および無所属議員らの共同提案で「人種差別撤廃施策推進法案」が参議院に提出された。法案は8月6日に審議入りしたものの審議はストップし、現在、与野4党間協議が重ねられている。今会期中の成立は予断を許さない状況だ。

この間、多くのメディアはこの法案について「ヘイトスピーチ規制」と報じ、「表現の自由か、規制によるその制約か」という二項対立的な問題設定をしてきた。だが、提出された法案は包括的な差別を禁止する、罰則のない理念法だ。また仮に「ヘイトスピーチ規制」だとしても、この二項対立的な問題設定は妥当なのだろうか。法案提出前、つまり包括的な差別禁止法かヘイトスピーチ規制になるかまだ決まっていなかった昨年10月に、「被害者」の立場からこの問題について考えた文章を以下、転載したい。多くのメディアがこの二項対立から抜け出せず議論をミスリードしている現状で、この問題提起はいまだ有効だと思うからだ。

「外国人」の「女」は「黙れ」ということ

ヘイトスピーチに対する法規制をめぐる議論が盛んになってきているが、いまだ「表現の自由」か「規制によるその制約」か、という二者択一の問題設定がなされることが少なくない。だが本当にそうなのか。ここでは、現在の日本で実際にヘイトスピーチの被害にあっている当事者の立場から考えてみたい。そもそもその人たちに、そうではない人と平等に「表現の自由」があるのだろうか。

たとえば私はTwitterのユーザーだが、在日朝鮮人であることと本名をオープンにしている。身のまわりのたわいもないこともつぶやくが、毎月このコラムに書いているような、在日コリアンをはじめとした在日外国人をめぐる状況への憂慮や問題提起のようなことも書く。すると、すぐに自称愛国者や自称中立と称する匿名の者たちがわらわらとわいてきて、「反論」や「質問」を寄せてくる。なかには、ここに書き写すだけでメンタルがやられそうな文言すらも並ぶ。それは、明らかにしている私の属性、在日であり女であることをあげつらったものであることが多い。要するに、「外国人」の「女」は「黙れ」、「帰れ」ということだ。

ヘイトスピーチはマイノリティの表現の自由を奪う

私だって人間だ。そのような言葉を投げつけられて平気なわけはない。疲弊する。傷つく。疎外感や徒労感を覚える。そして、何か書くときに迷いやためらいが生じる。それは、公の場だから言葉には慎重に、というマナーレベルの問題ではない。言葉の暴力による萎縮だ。発言をやめてしまうこともある。もちろん、こうした目にあっているのは私だけではなく、SNSから撤退していく人も少なくない。そうでなくても声を上げにくいマイノリティの声は、さらにかき消されていく。そもそも声が出せない。暴力的に声を奪われているのだ。これは、SNSの場という一例にすぎないが、さて、これでも「表現の自由」は平等だろうか。

「少数者の排除は民主主義を土台から突き崩す」

そう考えると、「ヘイトスピーチの法規制は国民の寛容さや謙虚さを追求するのが目的だ。『表現の自由』や『集会の自由』の制限などに悪用されないよう、国民は継続して監視していく必要がある」(朝日新聞9月20日付「ニュースのおさらい」)といった論調が、勘違いも甚だしいことがよくわかる。それに比して、「ヘイトスピーチを法規制している国は100以上。日本では表現の自由を制限するとして慎重論も根強いが、表現の自由はなぜ守らねばならないのかを考えたい。放置は差別を肯定し、少数者の排除は民主主義を土台から突き崩す。一定の制限は憲法の精神にも沿う」(神奈川新聞10月13日付「照明灯」)の、なんと筋の通ったことか。

「国民の寛容さや謙虚さ」のためなどではない。マジョリティの表現の自由のためにマイノリティのそれは犠牲になってもいいのか。つまり、民主主義とは何かという、根本的な問いが突きつけられているのだ。「二択」に陥らないためにも、まずは包括的な差別禁止法が必要だろう。

(『週刊金曜日』2014年10月31日号「メディアウォッチング」)

日本映画大学教員(社会学)

ハン・トンヒョン 1968年東京生まれ。専門はネイションとエスニシティ、マイノリティ・マジョリティの関係やアイデンティティ、差別の問題など。主なフィールドは在日コリアンのことを中心に日本の多文化状況。韓国エンタメにも関心。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌(エスノグラフィ)』(双風舎,2006.電子版はPitch Communications,2015)、共著に『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』(2022,有斐閣)、『韓国映画・ドラマ──わたしたちのおしゃべりの記録 2014~2020』(2021,駒草出版)、『平成史【完全版】』(河出書房新社,2019)など。

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