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朗希世代にブレークの予感。プロ野球にはこんな黄金世代もあった(2) 絢爛のあの世代

楊順行スポーツライター
横浜高時代の松坂大輔。右は小池正晃(写真:アフロスポーツ)

 松坂大輔(西武)が代表する松坂世代の1980年度生まれには、入団年を問わず、94人が日本のプロ野球入りした。そのうち個人タイトル獲得者だけでも松坂、新垣渚、杉内俊哉(いずれも元ソフトバンクなど)、和田毅(ソフトバンク)、藤川球児(阪神)、久保田智之(元阪神)、館山昌平(元ヤクルト)、村田修一(元横浜など)、梵英心(元広島)、小谷野栄一(元日本ハムなど)……。いやはや、すごい。ほかにも東出輝裕(元広島)、森本稀哲(元日本ハムなど)、赤田将吾(元西武など)ら、世代選抜チームを結成したら、なかなか強そうだ。

 この世代、横浜の春夏連覇の印象があまりに鮮烈だが、半数以上の45人に甲子園出場がある。藤川など5人は2年時の出場だから、98年の春夏に限ると、出場者は40人。横浜が対戦したチームにはプロ入り組が11人いて、そのうち松坂と直接投げ合ったのが6人だ。

・センバツ

1回戦 報徳学園/光原逸裕(元オリックスなど)

2回戦 東福岡/村田

決勝 関大一/久保康友(元ロッテほか)

・選手権

2回戦 鹿児島実/杉内

準決勝 明徳義塾/寺本四郎(元ロッテ)・高橋一正(元ヤクルト)

 センバツで村田と投げ合っているのは、意外と知られていないのではないか。当時の村田はエース。だが「ピッチャーでは、松坂に勝てない」と、日本大進学後に野手に転向したという逸話がある。ちなみにこの試合の松坂は2安打完封で、東福岡の村田、大野立詞(元ソフトバンク)の三・四番はいずれも4打数無安打の計3三振。3対0で横浜が完勝している。決勝は久保と投げ合って4安打完封など、松坂はこの5試合のうち、報徳学園戦を除けば無失点というのがすごい。なかでも秀逸なのは、夏の2回戦、杉内との投げ合いだろう。

 1回戦の杉内は、力のあるストレートと大きなカーブで八戸工大一を手玉にとり、わずか1四球の16三振でノーヒット・ノーランを達成していた。対して松坂は、ストレートがシュート回転する悪癖が出て、自責はゼロながら柳ヶ浦に1点を失っている。プロ注目の好投手対決は5回まで鹿実2安打、横浜3安打で0対0のスコアレスだった。

 だが横浜は6回、後藤武敏(元西武など)の犠飛で先制し、8回には松坂の2ランなどで一挙5点。松坂も悪癖を修正する能力の高さを示して5安打9三振の完封劇を演じることになる。「力の差があるのは、わかりきっていました」というのは、当時の鹿実・久保克之監督の弁だった。

 印象的なのは、同僚の寺本とともに高卒でプロ入りした明徳義塾・高橋の言葉だ。明徳と横浜の準決勝。前日のPL学園との準々決勝で延長17回を投げた松坂は先発を回避し、明徳が横浜の控え投手から、8回までに6点を奪っていた。だがその裏、エラーをきっかけに寺本がKOされ、高橋が救援のマウンドに立つと横浜は2点差まで追い上げる。9回は松坂をマウンドに送り、明徳、無得点。2点差のまま9回裏のマウンドに登った高橋は……。

こんなに強くプレートを蹴るのか……

「(松坂が投げた)軸足の蹴りのあとが、マウンドに残っているんですが、いままでに見たこともないくらい前に伸びていて、こんなに強くプレートを蹴るのか、と衝撃を受けた記憶がある」

 いまはどうなっているか知らないが、かつて稚内市内の松坂大輔記念館には、松坂が投げたという想定のマウンドが再現されていた。実際そこに立ってみたが、左足の踏み込みあとなど、凡人にはまるで立ち幅跳びの距離感である。

 さて、横浜は9回裏に高橋、さらに再度マウンドに立った寺本を攻略して3点を挙げ、劇的なサヨナラ勝ち。翌日の決勝では、松坂が京都成章をノーヒット・ノーランに牛耳る投球を見せ、ミラクル3連発の連覇を飾るわけだ。

 この大会で、もうひとつ興味深いのは3回戦、帝京と浜田の対戦で、浜田のエースが和田だった。優勝候補の帝京に対して、「田舎の公立校」(和田)の浜田が善戦する。7回終了まで2点のリードだ。だが8回表、帝京1死二塁。和田のストレートが、甘く入る。打球はセンターへ。

「抜かれた、と思ったら、とんでもない伸びを見せてそのままバックスクリーンです。“やっぱアイツ、すげえな。さすがドラフト候補だな”とあきれましたね」

“アイツ”とは、帝京の三番を打つ森本だった。森本の同点2ランで流れは帝京か? だがその裏、浜田は押し出しで勝ち越しの1点を挙げると、和田が9回を抑えて逃げ切った。「あのくらいのタマなら、打たないと……」と嘆いたのは、当時の帝京・前田三夫監督である。

 そのころの和田は、細身の体でMaxはせいぜい131キロ。松坂や新垣に比べれば20キロも見劣りし、それも1試合に1、2球だった。それでも決して、“あのくらいのタマ”ではない。当時からテイクバックが小さく、さらに腕が体に隠れ、ボールの出どころが見えにくいフォーム。だからだろう、帝京の打者は「150キロくらいに見えた」と語っている。

 帝京に勝ってベスト8に進出した和田は、準々決勝の日、アルプススタンドと外野席の切れ目から、松坂の投球を見た。

「ちょっと別次元で、こういう人間がプロの一流になるんだろうな、と思いましたね」

 松坂世代のうち、いまもNPBで現役を続けるのは当の松坂と、この和田の2人になった。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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