芸能界の薬物・不倫スキャンダルに沸いた2016年の背後に漂う危ない空気
12月29日にTBSが放送した清原和博元選手の薬物依存告白は見応えがあった。翌日の新聞などは一般紙も含めて、彼が現役時代に興奮剤を使用していたのを認めた部分を報じていたが、確かにニュース価値としてはそこかもしれないけれど、そんなことよりも清原元選手が薬物とどう関わり、どう向き合っているかを詳細に語った部分が非常に興味深かった。薬物依存について考えるためには貴重な素材だと思う。
しかし、2016年は、本当にタレントやスポーツ選手などの薬物や不倫のスキャンダルが吹き荒れた1年間だった。テレビの年末特番もそれを振り返るという企画が多いし、最近もASKAさんの薬物逮捕後の不起訴決定による釈放、成宮寛貴さんの『フライデー』による薬物疑惑などが大きな話題になっている。
こういう流れのきっかけを作ったのは『週刊文春』と言ってよいだろう。「文春砲」という言葉ができたくらい、同誌のスキャンダル報道は強烈で、週刊誌ジャーナリズムを久々に活性化させた。しかも同誌のすごいのは、証拠写真をきちんと押さえるなど、取材をきちんとやっているところだ。週刊誌は飛ばし記事が多いというこれまでの通念をひっくり返したと言ってもよいかもしれない。
1月7日発売の月刊『創』2月号は出版社の特集で、『週刊文春』の編集・取材態勢についても詳しく記事にしているが、文藝春秋の鈴木洋嗣ノンフィクション局局長が強調していたのは、2016年に同誌がこれほどスキャンダル報道でスクープを飛ばしながら1件も民事訴訟を抱えなかったということだ。『週刊文春』は2016年上期で前期より平均5万部以上も実売部数を上乗せするという快挙をなしとげているのだが、詰めの取材をきちっとやるからこそ読者の信頼につながり、それが部数増につながるという好循環を産んでいるといえるだろう。
だから、この1年間の週刊誌のスキャンダル報道については、概ね健闘したと評価されてしかるべきだと思う。しかし、そのうえで気になるのは、不倫や薬物スキャンダルの受け止められ方、あるいは毎週のように有名人が槍玉にあげられ、家庭崩壊や仕事の喪失といった状況に陥っていくのを「他人の不幸は蜜の味」とばかり眺めて楽しむという昨今の空気である。ちょうど30年前の写真週刊誌ブームの頃、同じような熱狂に日本中が陥った時期があって、それにちょっと似た感じがするのだ。
いや今が30年前と違うのは、社会全体が閉塞状況に置かれ、それに苦しんでいる人たちが、有名人が次々転落していくのを眺めて楽しむという、この鬱屈した空気だ。かつての写真週刊誌ブームもそれに支えられていた面はあるのだが、今の空気は当時よりもっと屈折しているような気がしてならない。
例えば以前も書いたが、ベッキーさんが不倫スキャンダルで仕事を失ったのに、相手の川谷絵音さんがのうのうと音楽活動を続けているのは許せないとして、執拗に川谷さんを追いかけるという、その空気だ(以前書いた〈「ゲスの極み乙女。」川谷絵音の活動休止の背景には考えてみるべきことがあるのでは〉は下記参照)。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20161030-00063873/
別に川谷さんの肩を持つ気はないが、週刊誌の執拗な追及を読者が拍手しながらはやし立て、メディアと読者双方が煽り立てながらタレントを追い詰めていくという雰囲気に、何となく危ないものを感じてしまうのだ。
そもそも不倫スキャンダル発覚でその妻や家族が怒るのは当然としても、読者がそれをはやし立て、世間の前で謝れと要求するという、この空気は何なのだろうと思わざるをえない。薬物についても、確かに所持・使用は犯罪だから当事者が断罪されるのは当然だが、一方である種の病気だという側面もあり、断罪するだけでは解決にならないというのも明らかだ。その考え方が日本にも少しずつ浸透し、2016年6月からは刑の一部執行猶予制が導入されるなど、「処罰だけでなく治療を」という方向へようやく日本も変わりつつのだが、そうしたところへ起きたASKAの11月28日の逮捕騒動を見ると、いったい何なのだろうと思わざるをえない。
午後2時過ぎに逮捕情報が一斉にマスコミに流れ(捜査側のリークだという見方が根強いが)、自宅前に取材陣が押しかけて大混乱になり、夜8時過ぎに任意同行で移送されるまでえんえんと「さらしもの」報道が続くという「劇場型逮捕」だった。薬物事件で有名人を逮捕する時には、その社会へ与える「見せしめ」効果を捜査側も念頭に置いて行動するというのは定説だが、それにしても今回の騒動はやりすぎだろう。
いや、やりすぎというより、その後、嫌疑不十分で不起訴という失態の顛末を見ると、あの騒動は、むしろ捜査側の不手際の結果だったのだろう。しかし、まだ容疑も固まっていない段階で、当事者をあんなふうに「さらしもの」にしてしまうのは相当問題だろう。しかも、それが捜査の不手際で不起訴になっても、一連の騒動についてメディア界で反省の声も出てこないというのは問題ではないだろうか。一時期、「集団的過熱取材」が大きな議論になった時期があったが、いったいそういう議論はどこへ行ってしまったのか。
写真週刊誌ブームやロス疑惑報道に象徴された1980年代半ばのある種の狂騒状態への反省から、報道をめぐるそうした議論は広がっていったのだが、今それが一巡し、その議論自体がすっかり忘れられているような雰囲気だ。
スキャンダルが発覚した有名人が破滅していくのを大勢の人たちが眺めて楽しむという風潮の背景に、前述したように社会全体を覆う閉塞状況があることは間違いないだろう。格差拡大や貧困に苦しみながら、他人がもっと不幸になっていくさまを見て溜飲を下げるというルサンチマン(社会への怨念)の歪んだ発露は、一方で排外主義と結びつき、ヘイトスピーチのような歪んだ現象を生み出している。排外主義的な空気が極右政党への支持につながっているというのは、恐らくアメリカにおけるトランプ現象や、日本における安倍政権への支持拡大とも通底しているのだろう。
スキャンダルによって権力者を引きずりおろし、溜飲を下げるというのは、その矛先が本当の権威・権力に向けられている分には健全な営みだ。舛添前都知事の金銭疑惑をメディアと庶民感情が一体となって追及していくといったケースには拍手を送りたいと思う。でも、この1年間のスキャンダルへの熱狂には、そうでない危ない空気も感じられて、手放しでは喜べない。それは一歩間違えると、とんでもない状況へと向かってしまう危うさを伴っているような気がするのだ。
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