源義経の「牛若丸」時代の足跡を紹介
源義経は源義朝と常盤御前の間に生まれた三兄弟の三番目の子で、幼名は牛若であった。長兄の今若は、阿野全成として鎌倉に登場し、北条政子の妹を妻として、現在放送中の大河ドラマでも活躍している 。また次兄の乙若は、義円として同じく鎌倉に登場したが、残念ながら平家との戦いで亡くなっている。
義経ら三兄弟の母である常盤御前は源義朝の側室で、洛北の紫野の北側に住まいしていたと考えられ、その地には牛若の誕生井や胞衣塚なども残っている。ちなみにこれらの遺跡が残る土地は、義朝からその時代に土地を拝領したとされる上野家によって今も守り伝えられている。
兄二人はすぐに寺に出されたが、牛若はしばらく母のもとで育てられ、その後、鞍馬寺へと預けられることとなった。ここで牛若は鞍馬天狗によって修行をつけてもらったという伝承があり、鞍馬寺の奥之院エリアには修行の場所も残っている。また山中には牛若ゆかりの「背比べ石」も残る。
鞍馬山での牛若の暮らしは比較的自由があったのか、都との行き来があったようで、そんな中で武蔵坊弁慶との運命的な出会いを果たす。その場所となったのは五条大橋とされるが、『義経記』では五条天神宮で出会ったと記されており、松原通(旧五条通)沿いにある神社近くの商店街では、二人の出会いの地としてPRも行っている。
牛若は成長するに及び、奥州へと旅立つことを決意。これはその地で繁栄を極めていた藤原秀衡を頼ったものであるが、この時に手引きをしたのが、伝説の商人である金売吉次とされる。その屋敷に鎮守社として建っていたのが首途八幡宮であり、牛若はこの社で旅の安全を願ったとされる。
牛若は京都を出る際にちょっとした事件に遭遇している。平家の家来9人とすれ違ったが、その際に家来の馬が泥水を跳ね上げ、泥を被ることとなった。謝罪を求めた牛若に対して、平家の家来達は尊大な態度をとったため、怒った牛若は即座に切り倒したという。しかしこのことをすぐに反省した牛若は、供養のため九体の地蔵を安置したと伝わり、そのうち残った一体は現在も「義経地蔵」と呼ばれて大切に祀られている。
またかつて蹴上には、牛若が自らの立身出世を祈願した恵美須神社があり、現在は、近くの旧東海道沿いにある粟田神社の中に遷され、出世恵美須神社として守り伝えられている。
幼少時代を京都で過ごした牛若こと源義経は、のちに兄頼朝の名代として上洛した際には、源氏堀川館(五条堀川付近)を拠点としており、近くには佐女牛井跡の石碑も残されている。
今回の大河ドラマでも抜群の存在感と、新しい義経像を見せてくれている。ぜひこの機会に京都における義経ゆかりのエリアを巡ってほしい。