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『虎に翼』の最終話が感傷的な回想シーンで終わったのは何故なのか

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:2021 TIFF/アフロ)

最終話のいきなり展開

(ドラマ内容ネタバレしてますので気をつけてください)

『虎に翼』の最終話は、ヒロイン寅子の死後の物語になった。

一瞬おどろいたが、伊藤沙莉が演じる寅子の霊がにこにこ元気なのを見ていると、それもありなのか、とおもってしまう。

夫には見えるが、娘には見えていないという、少し哀しい設定でもあった。

平成11年が舞台

まあ、ヒロインの亡霊による最終話である。

舞台は平成11年(1999)で、寅子が死んで15年が経ったというから、つまり彼女は昭和59年(1984)になくなっていたことになる。

モデルの三淵嘉子がその年になくなっていて享年69。いまどきの感覚だと、まだ少し若い。

おない年の花江は85歳

ドラマ最終話で出てきたおない年の花江(森田望智)は、だから、その時点で85歳(あたり)。

ひいばあちゃんとして大儀そうにしていたが、すごい年寄りというわけではない。

『カムカムエヴリバディ』のあんこは最終話で100歳という展開だったのに比べれば、ごくふつうの老人である。

『虎に翼』はまた、花江の物語であったなと、あらためておもう。

「情のドラマ」か「理のドラマ」か

『虎に翼』は、元気で前向きなヒロインのひたむきな生活を描く朝ドラらしい部分と、法律家である彼女の仕事の様子を詳しく描く法務ドラマの側面があった。

このどちらに重きを置いてみるかによって印象が違う。

言わば「情の物語」と見るか、「理の物語」だと感じるか、である。

最終話最終シーンは所長就任お祝いの席

最終話の最終シーンは、生前の寅子のシーンに戻って、横浜家裁の所長になったお祝いの席のとなった。

もとの最高裁判所長官でアンコ好きの桂場さん(松山ケンイチ)がやってきて団子を食べる。

ここでのやりとりが、この朝ドラの構造を象徴していたとおもう。

「ご婦人が法律を学ぶことに反対だ」

桂場は「私はいまでもご婦人が法律を学ぶことも、職にすることも反対だ」という。

入口で女性を突き放したような発言であるが、真意は少し違う。

女性が法律を学ぶと、自分たちがいかに不平等な扱いを受けているか、この社会がいびつでおかしいかということに気がつき、傷つくから、やめたほうがいい、という主張である。

いびつでおかしな社会

でもまあ、この意見はつまるところ「社会は変わらないから、女性はいびつでおかしいことに気づかずに生きていったほうが幸せだ」という主張になる。

変わらないから見るな、というのは、あまり大人の言うべきセリフではない。

司法に関わらなくても、この社会のあらゆる弱者は「いびつでおかしいこと」に繰り返し直面せざるを得ないからだ。

『虎に翼』が示してきた構造

まず、そういうセリフを大人に言わせる、というのがこのドラマの特徴でもある。(昭和当時には実際に発せられていた言葉だったとおもわれる)

これに反論するのに、よね(土居志央梨)を始めとした女性法律家の意見は「でも私はがんばる」という個人の決意の話が中心になってしまう。

元長官は、ふっと笑って「失敬」といって、撤回すると明言した。

これが『虎に翼』が繰り返し示してきた構造である。

崩しにくい大きな社会の壁の前では、個々人が決意を固めるしかない、という主張にも見える。古い理屈の壁を破るのは、熱い個人の情熱であるということだ。

また、理屈が重なってドラマ展開が息苦しくなると、情に訴える、というドラマ構造を強く意識しているとも言える。

これが特徴だ。

『虎に翼』のキーワード「はて?」

元気のいいヒロインが、壁にぶつかりながら、突き進むというのは朝ドラの核であって『虎に翼』の核でもあった。

ここを「はて?」というキーワードで駆け抜けていった。

これでとても素敵なドラマに仕上がったとおもう。

「ちがう!」と主張するヒロインよりも、「はて?」のヒロインがとてもいい。

ちがうと叫ぶヒロインより、こっちのほうが強そうだ。

理に落ちる法律ドラマ

ただ、法律ドラマの部分は理に落ちる。

もちろん法律は、理の固まりでなくてはならない。

エンタメ感たっぷりのリーガルドラマだと、裁判のもとになった事件を興味深く取り上げることで、見所を作れるが、『虎に翼』に『イチケイのカラス』のような展開はのぞめない。

法の運用より、もっと根本的な「法の考え方」に近づいた部分が多く描かれたのは、おそらくモデルの三淵嘉子のキャラクターによるものなのだろう。

どうしても理屈のドラマとなる部分があった。

そして理屈の部分は、やはり退屈である。

原爆裁判のむずかしさ

原爆裁判のシーンなどがそうだった。

判決文に名を連ねたことが、モデルの三淵嘉子の大きな業績だととらえられ、丁寧に描かれるのはしかたない。

理に落ちないように工夫されていたが、限界がある。

国家の責任とは、というやりとりは、観念に終始するしかない。

父の「共亜事件」の展開とはスリリングさが違う。

このドラマが最初から持つ限界でもある。

人によっては、ここが退屈だと感じるのはしかたないだろう。

最終話の娘の独白が届かない

ふつうのシーンでもその構造が出てくることがあった。

最終話で言えば、ヒロインの娘の優未(川床明日香)が、継父(岡田将生)に亡き母へのおもいを語るシーン。

まず、母のすごいところを引き継げないまま人生が終わっちゃう気がして、というセリフは、それ自体がヒロイン中心すぎる観念的な言葉であった。

娘は、私にとって法律が母なの、だから身近に感じられるの、と言ったのだが、法律への距離という感覚があまり一般的ではなく、ここで泣ける、とはならなかった。

最終話の娘の言葉が観念的な仕上がりになっているというのが、いろんなことを暗示していた。

理屈と情感のせめぎあうラスト

ラストシーンでも理から情へと工夫があった。

桂場さんの、女性法律家を認めないという意見は、寅子たちが論破した形で決着した。

理のシーンの極まりでもある。

そこでは終わらない。

そのまま回想シーンとなる。

父がでて、母がでて、兄がでて、この兄がでてきたところでかなり胸をつかれる。もう会わなくなった人たちが次々と登場してきて、感傷的な気分となる。いねさんの踊りもかなり心に迫った。

ラストは米津玄師の歌にかさねて、若いころの法衣姿になったヒロインは「さようならまたいつか」と口パク、それで終わった。

朝ドラ過去3作のラストは

ドラマに戻らず感傷的回想シーンで終わったというのが印象深い。

前作『ブギウギ』のラストシーンは、元気なスズ子が家族を前に話をして、「おかわりや」と茶碗を突き出すシーンで(そこからの引いたシーンで)終わった。元気な終わりであった。

その前の『らんまん』は主人公が亡き妻の亡霊と話をしたあと、植物採集で「おまん、だれじゃ」とこっちをまっすぐ見て笑うシーンで終わった。

やっぱ『らんまん』はいいな。

もうひとつ前の『舞いあがれ!』は「空飛ぶクルマ」にばんばを乗せて操縦して、ヒロインは過去のことを回想するも「まもなく目的地に到着」と操縦士として連絡するシーンで終わる(これを受けて鈴木アナは泣いてました)。

回想シーンが長かったがあくまで「主人公の現在」で終わった。

ヒロインの死後まで描くのはきわめて珍しい朝ドラ

『虎に翼』はたっぷり感傷的回想で終わった。

なかなか珍しい。

ひょっとして「ちょっと理屈が勝ったドラマですいません、最後は感傷にひたってください」というようなメッセージだったのかともおもったが、まあ、考えすぎだろう。

でも、「理」では終わらず、「情」に訴えるため、この形を取ったのはたしかである。

女性の半生をしっかり描いた骨太な朝ドラだった。

ヒロインの死後まで描く物語はきわめて珍しい。

そういうところまでメッセージ性の高い朝ドラであった。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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