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広島・長崎原爆の基本的歴史事実

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
2016年、広島原爆忌(写真:アフロ)

 広島、長崎原爆が投下されてから今年で74年になる。毎年この時期になると原爆特集が組まれるが、年を追うごとに報道量が減っていく。今一度、あの二つの原爆投下についての基本的歴史事実の確認が必要だ。

【1】1930年代、原爆研究で最も先行していたのはドイツ。ではなぜドイツは核研究に挫折したのか?

 私たちは歴史を後から振り返っているので、あの忌まわしい、アメリカ軍による二発の原爆投下が周到に準備された計画の結果であると思っている。しかし、アメリカによる原爆開発計画「マンハッタン計画」は、1930年代に最も核研究で先行していたドイツに対抗するために行われたものだ。

 ドイツの物理学者、ヴェルナー・ハイゼンベルク博士らを中心に、ドイツでは核研究が世界最先端の設備と人員を投じて行われていた。1933年、ヒトラー内閣が成立し、ヒトラーが瞬く間に全権を握る(同年、全権委任法)と、その前後、ユダヤ人系物理学者のほとんどがアメリカに亡命し、大統領(F・D・ルーズベルト)に対して、ドイツの核開発の危険性とアメリカでも対抗措置としての核開発の必要性を直訴した。

 こうして漸く、アメリカ政府は重い腰を上げ、核研究に取り組み始めたのである。

 よくヒトラーが、「原爆はユダヤ人の技術だから研究する必要はない」と言って核研究を中止したとされるが、これは事実ではない。ドイツの核研究は1939年9月から始まる第二次大戦後、前掲のヴェルナー・ハイゼンベルク博士らを中心に、非ユダヤ系物理学者の元着々と進められた。しかし、結局、ナチスドイツが核爆弾を製造することはできなかった。なぜか?

 実は原子爆弾の製造には、ウランやプルトニウム等といった根本的原材料のほかに、「重水」と呼ばれる材料が必要である。重水は、原子炉の減速材に用いるもので、いくらウランがあってもこの重水が無いと原爆は完成しない。

 ドイツは、核研究を進めるうち、この重水の生産工場を当時占領していたノルウェーに建設していた。ところが、1943年2月にこのノルウェーの重水工場が、連合国の特殊部隊によって爆破され、重水の生産が不可能になった。連合国がドイツの核研究を事前に掴み、ナチス占領下のノルウェーで実行した破壊工作の成果であった。

 1943年2月と言えば独ソ戦開始から約1年半が過ぎ、第二次大戦の天王山ともいえるスターリングラード攻防戦で、ドイツ第六軍の包囲殲滅が起こり、ドイツが攻勢から防勢に立たされることとなった分かれ目である。ドイツはいつ完成できるか、めどの立たない核開発を続ける余裕はなく、この段階で核計画を断念した。

【2】3発の原子爆弾を作ったアメリカ

筆者制作
筆者制作

 このような中、アメリカによる核開発「マンハッタン計画」は、アメリカ西部・ニューメキシコ州のロスアラモスに、当時最高の人員と莫大な予算を投じて進められる体制が着々と整っていった。

 結局、アメリカは「マンハッタン計画」で、3発の原子爆弾を作ることに成功した。1発目はトリニティ、2発目はリトルボーイ、3発目はファットマンである。この3発の爆弾は、いずれもトリニティとファットマン、リトルボーイの2種に大別されるから、ここで少し解説する。

 上記の図を見てわかるように、3発の原爆はプルトニウム爆弾か、ウラン爆弾か。臨界方法が爆縮型か砲弾型か、で全く異なっている。1945年7月、ニューメキシコ州の砂漠で行われた世界始めての原爆実験は、この3発のうち、トリニティを使用して行ったものだ。

 なぜトリニティの実験が必要だったのかというと、全方向から均等に圧力をかけてプルトニウムを臨界させる―爆縮型という方が、技術的に極めて難度が高いからである。一方、ウランAにウランBを打ち込むことによって臨界に達する単純な砲弾型のリトルボーイは、実験をしなくとも「絶対に爆発する」ことが明確であったため、実験の必要はないと判断されたのである。

 ちなみに、いま現在、世界にあるすべての核爆弾はトリニティ、ファットマンと同じ爆縮型でのプルトニウム爆弾である。なぜリトルボーイ形式の核爆弾が採用されないのかというと、リトルボーイ型の砲弾式では、臨界の瞬間、臨界していない反対側のウランが吹き飛び、全量を効率的に臨界させることができない「無駄の多い核爆弾」だからである。

【3】原子爆弾投下に人種差別的要素はあるか?

原爆ドーム(旧産業奨励館)、pfotoAC
原爆ドーム(旧産業奨励館)、pfotoAC

 よく言われるように、広島・長崎への原爆投下は、日本人(有色人種)に対する人種差別が背景にあった―という論は本当なのだろうか。答えはノー、である。【1】で述べたように、アメリカの核開発はナチス・ドイツへの対抗であって、日本を念頭に置いたものでは全くない。

 歴史にIFはないが、もし1945年8月の段階でドイツが降伏していなかったら、アメリカは広島型(リトルボーイ)をドイツに、長崎型(ファットマン)を日本にと、1発づつ使い分けていたはずだ。なぜなら、当時のアメリカが懸念していたのは、原爆を投下したものの、それが不発に終わり、敵軍に爆弾の内部を分解されて技術力を盗まれることを恐れていたからだ。

 だから、「絶対に臨界・爆発する=砲弾型」はドイツへ、ファットマンは日本に投下されていたとみるのが妥当である。爆縮型という、当時まだ極めて高度な技術を用いたファットマンを、念には念を入れてニューメキシコの砂漠で実験したのは、まさしくこのように「もし不発だった場合、核技術が盗まれる」というアメリカの憂慮を反映したものだったからだ。

 そもそも、第二次大戦中、アメリカ軍がドイツ本土に投下した爆弾の総トン数は約160万トン。対して日本は15.5万トン。日本の10倍以上の爆弾の雨を、ドイツ国民は喰らっている。有色人種に対する人種差別があったのなら、ドイツに対しては爆撃の手加減を加えるはずだが、実際はドイツに対するアメリカ軍の爆撃は日本の10倍激しかった。戦争とは、これほどまでに人間の正常な感覚を狂わせるものなのである。

 だから、「もし」1945年8月の段階でドイツが降伏していなかったら、「確実に爆発する」リトルボーイはドイツのどこかの都市で炸裂していただろう。

【4】京都は文化的価値があるから原爆投下の対象から外れた、は本当か?

京都市における原爆投下目標(梅小路操車場)、グーグルマップより
京都市における原爆投下目標(梅小路操車場)、グーグルマップより

 かくしてアメリカ軍は、1945年5月、実験で使用したトリニティを除く2原爆の投下候補地を「小倉、広島、横浜、新潟、京都」の5都市に絞り込み、最終的には「広島・小倉(小倉の第二目標として長崎)」の2都市に決定した。京都、横浜はひとまず投下都市から外れた。

 この過程でヘンリー・スチムソン陸軍長官が、「京都はかつて日本の首都だったところであり、天皇とゆかりが深く、歴史的文化財が多数ある。ここを原爆で破壊すれば、日本人はアメリカ人への敵愾心を鮮明にし、日本の占領統治が困難になる」として、ひとまず京都への原爆投下を除外させたのは事実である。

 しかし原爆投下責任者のグローブス准将は、「京都は原爆投下に最適な広さの都市である」として京都への原爆投下を主張し続けた。戦後50年がたった1995年、米公文章によれば、日本本土進攻前に、できるだけ米軍の損害を抑えたいとして、更に16発の原爆投下を計画していたことを、トルーマン米大統領が承認していた事実が明らかになった。

 確かに最初の2発の原爆投下目標から京都を外したのは事実だが、その後も京都は、依然としてアメリカによる原爆投下の目標となり続けていたことは事実である。スチムソンの言う、「京都は文化都市だから原爆を投下してはならない」は、あくまで陸軍長官としての意志であり、最終的にはこの見解は退けられて、終戦が遅れていれば京都に原爆が炸裂していたのは自明である。

 ちなみにアメリカ軍による京都市の原爆投下目標は、現・京都駅西側にある梅小路操車場である(図)。ここに原爆が炸裂していれば、盆地地帯の京都市はすべて焼き尽くされ、何十万もの死者が出ていたであろう。

【5】一人でも多くの日本人を原爆で殺せ!

広島原爆の投下目標となった相生橋(pfotoAC)
広島原爆の投下目標となった相生橋(pfotoAC)

 かくしてアメリカ軍は、1945年8月6日、テニアン島から原爆搭載機・エノラゲイが四国、西条付近をへて広島市に向かった。アメリカ軍側は公式に認めていないが、エノラゲイは一旦、広島市を素通りし岡山方面に向かった。これは空襲警報を解除させ、一人でも多くの広島市民を防空壕から外に出し、熱戦で殺すための欺瞞作戦である。

 また広島が原爆投下都市として決定されて以来、B29は単独での広島市上空侵入を繰り返した。これは、「単独で行動するB29は何もしない」という安心感を広島市民に与え、油断させるための心理作戦である。

 案の定、単独行動をとるエノラゲイが広島市を素通りしたところで空襲警報は解除された。しかしそのころ合いを見計らって岡山方面に進出したエノラゲイは、急旋回して広島に向かい、午前8時15分、T字型の相生橋めがけて原爆投下。実際に原爆が炸裂したのは目標よりやや南東の、島外科病院上空約550メートルである。ウランの臨界で300メートルに膨張した火球は6,000度の熱線を発し、半径1キロ四方にいた人々を即時に熱死させると、真空状態になった火球に外気が急速に流れ込んですさまじい爆風が起こった。14万人死亡。

 続いて1945年8月9日、同じくテニアンから離陸した原爆搭載機、ボックス・カーは第一目標の小倉市に侵入したが、前日に隣接する八幡市を米軍が空襲した残余の余燼と、悪天候のため目標を確認できない。実はこのとき、アメリカ軍は曇りでも地表を確認できるレーダーを開発していたが、原爆投下は特殊任務のため、必ず「目標を目視」でないと投下してはいけないと厳命されていた。だから曇りではダメなのである。ボックス・カーは何度も小倉上空を旋回したが、目視確認は不可能だった。

 近年、八幡製鉄所の元職員が、「コールタールを燃やして煙幕を張った」という証言がメディアを飾った。その煙幕がどの程度、有効かどうかわからないが、結局ボックス・カーは小倉への投下を断念。小倉への投下が不可能だった場合、第二目標とした長崎市へと向かった。しかしこの長崎市も曇天に覆われ、ボックス・カーは原爆投下任務をあきらめてテニアンに帰投するかどうかの判断に迫られる。

 午前11時2分、雲の切れ間から長崎市北部の住宅地が見えた。すかさず「ファットマン」を投下。炸裂したのは、長崎市松山171番地にある、地元の富豪が有する別荘のテニスコートであった。軍事施設でも何でもない、単なる市民が所有していた私有地だった。死者7万人。

 ―原爆投下から74年。原爆投下国・アメリカではいま、「本当に原爆投下は必要だったのか」という歴史認識が着実に広がっている。あの原爆の惨禍を、私たちは歴史的事実として正確に心に刻み、決して再び、二度と同じ過ちを「繰り返させぬ」よう、心に刻み付けなければならない。

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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