【九州三国志】智勇の将、吉弘鎮信!大友宗麟を支え、九州戦乱に散った命
吉弘鎮信は、豊後の名将・吉弘鑑理の嫡男として生まれ、弟に高橋紹運を持つ名門の出身でした。
幼少の頃から武勇に優れ、主君・大友宗麟(義鎮)から偏諱を賜り、その忠誠を認められました。
永禄4年(1561年)、鎮信は宗麟の命で1万5000の兵を率い、毛利氏に奪われた豊前門司城を取り戻すため奮戦。
しかし、毛利水軍の支援と敵将・乃美宗勝の活躍により攻略は叶わず、引き際を見極めた鎮信は撤退を選択。
冷静な判断力が際立った一戦でした。
永禄12年(1569年)、鎮信は立花表で毛利軍と激突。
大胆な奇襲で敵の兵站を叩き、直属部隊のみで百数十人を討ち取る武功を挙げました。
その活躍は主君宗麟からの厚い賞賛を受け、筑前立花城督としての地位を得ます。
しかし、天正6年(1578年)、鎮信は薩摩島津氏との耳川の戦いに従軍。
経験不足の総大将・田原紹忍の指揮により大友軍は足並みが揃わず、強行派と慎重派が対立。
鎮信は前線での奮闘を主張しましたが、宗麟は後方に留まり、戦局は混迷を極めました。
戦闘が始まると、吉弘隊は一時的に優勢を保ちましたが、島津軍の野伏せ兵による奇襲で大友軍は総崩れに。
鎮信も戦場に踏みとどまり奮戦しましたが、鉄砲の猛攻に倒れ、壮絶な最期を遂げました。
その忠義と勇猛さは、多くの家臣や同僚武将から尊敬を集め、宗麟にとっても大きな喪失でした。
家督は子の統幸が継ぎ、吉弘家の名跡を守ることとなります。
鎮信の生涯は、乱世において大友家を支え続けた忠臣としての矜持と、戦国武将としての果敢な姿勢を如実に物語っています。
その武勇と誠実さは今も語り継がれ、九州戦国史の一頁を鮮烈に彩っています。